落柿舎
京都市右京区の嵯峨野にある草庵 ウィキペディアから
京都市右京区の嵯峨野にある草庵 ウィキペディアから
落柿舎(らくししゃ)は、京都市右京区の嵯峨野にある草庵である。松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた場所であり、その名の由来は、庵の周囲の柿が一夜にしてすべて落ちたことによる。芭蕉も3度訪れ滞在をし、『嵯峨日記』を著した場所としても知られている。
去来がこの草庵について書いた『落柿舎ノ記』がある。
庵の庭には40本の柿の木があり、日頃去来は人にこの庵の管理を任せていた[1]。ある時(1689年(元禄2年)頃[2])、去来がちょうど在庵中に、都から柿を扱う老商人が訪ねてきて、庭の柿を一貫文を出して買い求めたので、去来は売る約束をして代金を受け取った[1]。しかしその夜、嵐が吹き、一晩にして柿がすべて落ちてしまった[1]。翌朝来た老商人がこの有様に呆然としつつ、代金を返してくれるよう頼み込み、去来はこれを不憫に思って柿の代金を全額返した[1]。この老商人が帰るにあたって去来は友人あての手紙を託し、その中で自ら「落柿舎の去来」と称したという[1]。
去来は、貞享2-3年(1685年 - 1686年)ころに、嵯峨野にあったこの庵を入手した[2](なお、去来の当時の庵の正確な場所は不明である[2])。もともと豪商が建築したものである[2]。
芭蕉は、1689年(元禄2年)以来3度にわたってこの庵を訪れた[1]。とくに1691年(元禄4年)には4月18日から5月4日までと長く滞在し、『嵯峨日記』を著した[1][2]。このほか、野沢凡兆とその妻・羽紅(うこう)、去来が訪ねてきて一つの蚊帳で5人が一緒に寝たりしている。
現在の庵は、1770年(明和7年)に俳人・井上重厚(嵯峨出身で、去来の親族でもある)により再建されたものである[1][2]。この場所は弘源寺の跡であった[2]。また明治初年にも再興されている[2]。現在の庵の裏手には去来の墓がある。
現在は、公益財団法人落柿舎保存会によって保存・運営がなされている。2008年(平成20年)12月1日から2009年(平成21年)9月末まで庵の大規模な修復工事が行なわれた。
申込制で次庵が句会席として利用できるようになっている。
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