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長州藩の萩城を中心に形成された城下町 ウィキペディアから
萩城下町(はぎじょうかまち、英語: Hagi Castle Town[1])は、長州藩 (萩藩)の萩城を中心に形成された城下町。1604年(慶長9年)に関ヶ原の戦いに敗れ、周防国・長門国2か国に減封された毛利輝元が萩城と並行して建設を進め、長州藩の拠点として機能した。「萩城跡」、「萩城城下町」(いずれも国の史跡に指定)、「堀内地区」(重要伝統的建造物群保存地区)がよく当時の面影をとどめており、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」に登録されている[2]。
1603年(慶長8年)9月、徳川家康より築城の許可を得た毛利輝元は、10月、山口に帰着すると、藩府の候補地に防府の桑山、山口の鴻ノ峰、萩の指月山を選定。福原広俊を江戸に上らせ、老中本多正信と折衝させる。当初、福原は山陽道沿いの桑山、桑山が不可なら鴻ノ峰をと希望し「引こみ過ぎたる所」として指月に難色を示したが、本多は「当時の御分際にては成らざる山に候。ただ指月然るべき所に候」として指月が選定された[3]。町割は萩城の築城と並行して行われたと考えられ、家臣の宅地は、1605年(慶長10年)に定められている。その前年、萩に入城した毛利輝元の命により、狩野太郎左衛門に命じて作らせた絵図が都市設計の原型となったと考えられる[4]。町割は道路を基本として、二の丸南門から始まる御成道が幹線道路として機能し、そこから古萩・堀内の町割を行ったものと考えられている。一方、江向や平安古地区では、御成道と道が平行しておらず、江向では御許町筋、平安古では、郊外の山田条里を基軸に採用したと「萩図誌」は言う。江向の市民会館の横の原標石は、市民会館建設の際に10メートルほど東南の現在の場所に移されたものであるが、町割の際の基準点となったものである。これらを基準に碁盤の目状に町割がなされたのであるが、平安古の鍵曲(かいまがり)や古萩の寺町一帯を始めとして城下町の防衛上の配慮から意図的に基軸からずらされた場所も散見される[5]。町割の頃の萩は「長門金匱」が「其の節萩は以ての外田舎にて、川上より今の御城下までは竹木茂り、堀内より浜崎までは松原にて、(中略)、今の田町通りより南東は皆沼にて、芦原の水溜まりなり、田も聢々これ無く、よき道もなし。」とあるように、城下の竹木や松原、沼地を開拓しなければならず、かなりの労を要したと考えられており[6]、毎年の幕府に対する普請や旧領6ヶ国の既収租米を新領主に弁済しなければならない、いわゆる「六ヶ国返租問題」でただでさえ火の車であった藩の財政悪化に拍車をかけることとなった[3]。
1604年(慶長9年)6月に萩城の縄張りが終わると、翌年、諸士に宅地の配分を行った。石高3000石以下は900坪、1500石以下は600坪、450石以下は400坪、150石以下は200坪、徒士・三十人通りは120坪、陣僧・足軽以下は70坪が配分された[7]。「万治制法」によると侍屋敷が配置された地区は、堀内・古萩を超え、平安古・古春日・土原・金谷・雑色町にも及んだが、堀内は支藩主や毛利家一門など上流の侍に当てられ、古萩は町人や寺社などの混在地域、古春日(後の江向)は、百姓との混在地域、橋本・唐樋は線状に続き、後に多くが町屋となった。金谷・雑色町は椿町の周辺に侍屋敷が分布、川島から土原にかけて最も多くの侍屋敷があった。侍屋敷は平安古・江向・土原でその後増加し、古萩は町人地に変化していき、貞享の頃には城下町の完成を見たと考えられる[8]。同年11月、輝元入城。この段階では一部建物ができたに過ぎなかったが、直接城下町建設の指揮を執るために入城を早めたと考えられている[9]。
町人地の中心は古萩に置かれたが、初期の町人の多くは、輝元が萩に城を建設することが決まった際に山口などから呼び寄せたものであり、町づくりはこうした町人の協力のもとに行われたのであった[10]。
1682年(天和2年)、平安古町の山県勘左衛門宅から出た火は、堀内へ延焼、蔵元役所や80余に及ぶ寺社・侍屋敷・町屋を焼き、重大な被害をもたらした。就任間もない藩主・毛利吉就は、住吉神社の祭礼の簡素化、道路の修繕など復興に着手した[11]。1685年(貞享2年)には、それまで萩の町にはなかった時鐘を家来中負担で設置することが決まった[12]。その後も1710年(宝永7年)には、侍屋敷地であった地域が町人に売却されて形成された、御許町が橋本町と唐樋町から「独立」するなど、萩の町は繁栄した(町名は町となることが許されたということに因む)[13]。
13代藩主に就任した毛利敬親は、1843年(天保14年)に藩校明倫館の改革に着手、文武奨励に取り組んだ。これ以降、医学教育や種痘の普及、博習堂の設置等洋学の推進を進め、恵美須ヶ鼻造船所での丙辰丸の建造や兵制改革等強兵策も断行した。この試みは明治維新に先駆けた産業革命と評価されており、遺跡は、産業化等についての政策形成や当時の改革時の伝統的経済の姿を今に伝えている[14]。幕末、公武合体論や尊王攘夷を拠り所にして京都で政局を主導、藩士吉田松陰の私塾松下村塾は幕末・維新期で活躍する多くの人材を輩出した。
1863年(文久9年)3月27日、敬親は藩士に対し、「采地帰住令」を発し、4月16日には「日帰りの湯治」と称して、山口後河原の屋敷に移り、そのまま山口に永住することを発表、藩庁を山口に移した[15]。激動化する幕末情勢の中、攘夷の決行に際して、艦砲攻撃に弱いと考えられた萩よりも山口の方が指揮に相応しいと考えたためである(山口移鎮)。これにより、輝元入城以来259年にも渡り、人口4万人の中国地方有数の城下町に発展した萩は城下町としての歴史に幕を下ろした[16]。
明治維新後、堀内地区を中心とした上級武家地は旧士族授産のための夏みかん畑に転用され、 中下級武家地の多くが、宅地内に夏みかん畑を持つ住宅街となった。町人地においては、町家の近代化が進められた。寺院や神社は統廃合はあったものの、ほぼそのままの位置に存続した。城下町の基本構造は現在まで受け継がれている[17]。
街路や水路、武家建築、町家建築、寺社建築、御船倉や藩校などの建築物が多く遺存しており、各年代の多様な建築物が重層的に残っていることから、2006年に「萩―日本の近世社会を切り拓いた城下町の顕著な都市遺産」として世界遺産暫定リストへの記載が提案されたが、「世界史的・国際的な観点から、近世日本の城下町の様相が遺存する都市遺産の代表例」という提案理由に対して「典型例として、本資産が顕著な普遍的価値を持つことの証明が不十分」とされ、暫定リストへの記載は見送られたが、「他の同種資産と組み合わせることにより、顕著な普遍的価値を証明し得る可能性について検討すべきものとして評価できる」とされた[18]。2007年に「九州・山口の近代化産業遺産群―非西洋世界における近代化の先駆け」の構成資産として、文化庁へ再度提案が行われ、2009年に暫定リスト入り、萩市内の資産として萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、松下村塾が記載された。2009年に開催された専門家によるシンポジウムの結果を受けて「萩城下町」が新たに記載された。2014年に世界遺産への推薦が決定、2015年の第39回世界遺産委員会において「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業として世界遺産に登録が決定した[19]。
世界遺産としての「萩城下町」は、3つの資産から構成されている。
萩城跡へのアクセス[2]
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