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長府藩出身の陸軍軍人 ウィキペディアから
菅野 尚一(すがの ひさいち、1871年5月10日(明治4年3月21日) - 1953年(昭和28年)6月20日)は、長府藩出身の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級。
山口県豊浦郡大字豊浦村(現下関市長府町)にて、父尚喬(旧長府藩士、陸軍主計大尉)の長男として誕生。
陸軍幼年学校を首席で卒業。1891年(明治24年)陸軍士官学校(士官候補生2期)を卒業。
陸軍少尉として日清戦争に従軍し、1899年(明治32年)12月に陸軍大学校(13期)を卒業した。歩兵少佐として日露戦争に出征。日露戦争時では大本営参謀の一人。奉天会戦にて乃木希典の第3軍の参謀も務める。
1917年(大正6年)には石井・ランシング協定締結の際に、石井菊次郎大使付きの首席武官として竹下勇海軍大将(当時中将)と共にアメリカへ随行。竹下勇大将の取り成しで、セオドア・ルーズベルト元大統領と親交を結ぶ。
後、軍務局長、第20師団長、台湾軍司令官、軍事参議官などを歴任。台湾軍司令官時代に、当時としては最年少で大将に就任。
教育総監就任目前で上原勇作らの反長州閥派の妨害に遭い、陸軍を退陣する。代わりに就任したのは武藤信義である。以後は、公の場には一切顔を出さなかった。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
1953年(昭和28年)に、故郷山口にて世を去る。
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