Loading AI tools
日本の俳優 ウィキペディアから
若原 雅夫(わかはら まさお、1917年1月1日 - )は、日本の俳優[2]。
1940年代から1950年代前半にかけて、数多くの映画作品に出演し、そのルックスから「和製シャルル・ボワイエ」と称された。
出身地は東京市牛込区。1917年(大正6年)1月1日生まれ。児玉家の姉の次に長男として生まれ、父の「生命長く、男として立派なものになるように」との願いから「稔」と命名される[3]。家業は映画館経営。東京、北海道小樽市、福島県郡山市などで経営。そのため、幼児の時から映画に興味を覚え、父が経営する映画館で、映画を観ることに親しんだ。小樽には4歳まで生活し、そのあと福島県郡山市を経て、7歳の時、学校へ入るため再び上京し、以後、学生時代を東京の学校で過ごした[3]。
彼の自伝「私の歴史」[4] によれば、彼が学問の必要性を感じたのは、小学校4年生の時であったと言う。彼はその年、下落合の家から豊島区に転居して、直ぐに長崎小学校に入学した。その頃から猛烈に勉強を始めた。それは、「少しでも良い成績をとって、良い学校に入学したいという欲望が湧いてきたから」だと言う。その結果、5~6年生では頑張って優秀な成績を収めて級長になり、市立二中に好成績で入学できたと言う。
府立二中から、大学進学を志望していた時、父の事業が不振に陥ったため、親の経済援助を当てにすることは出来ないと考えた。そのため、叔父のつてで日清生命のエレベーターボーイをして15円の給料を貰い、下宿代、交通費、学費などを自分で賄ったと言う。昼食は抜きで、すり切れた洋服を着ていたという。これが一番苦しかった時代だったと書いている。然し、その苦しい中でも学業に打ち込み、早稲田第一高等学院に入学。
在学中、新興キネマで俳優募集をしていたので、友人二人と共に応募して若原だけが合格。俳優学校で一年間の研修期間を経て、1936年(昭和11年)、新興キネマに正式入社する。その時の講師に千田是也、菅井一郎がいた。仕事は未だエキストラの役であったが、撮影所の仕事の方が面白くなり、学校は自然退学した[3]。
入社して半年目に召集されたが、1940年(昭和15年)の春、鎖骨を損傷して除隊となる。再びスタジオの門をくぐり、既知の脚本家と監督に出会い、二人の熱心な勧めで俳優を続けることに。その時、芸名を「若原雅夫」とした。由来は、早稲田大学野球部の人気投手・若原正蔵と、新興で世話になった今村正夫の名のアレンジによる[5]。
新興キネマ入社後、若原の初出演映画は、1940年2月、真山くみ子の相手役として主人公に抜擢された『荒野の妻』で、初出演初主役として評判となった。
新興キネマに所属中の約2年2か月間、21本の映画に出演。その後大映に代わってからは、『誰か故郷を想わざる』『南進女性』『真人間』『南国絵巻』『愛の花束』『春遠からじ』『母よ嘆く勿れ』などに、主役、準主役で出演した。
さらに、大映時代では『風雪の春』、『別れも楽し』、戦中最後の映画『最後の帰郷』。一方、戦後最初の出演映画で、且つ、戦後初の日本で初めて接吻のシーンを描いた話題作『或る夜の接吻』、『修道院の花嫁』、『花咲く家族』、『君かと思ひて』などに主演。以後、『土曜夫人』、昭和初期に繁栄していた製糸産業の内部問題として女性の生き方を取り上げた『時の貞操』、『誰に恋せん』では、水戸光子、原節子、高峰三枝子と組んで、品格のある二枚目としての評価が定着し、着実にスターの道を登って行った。
高峰は1948年、上原謙と『懐かしのブルース』で共演した。映画はこの後も音楽映画として続く予定だったが、次の相手役が変更になったことについて、高峰の自著にこんなことを書いている。「歌う映画では私の方が主演ですから、先輩の上原さんは(ご自分が主役にならないことに)ご不満のようで、「別れのタンゴ」ではお断りを受けたのです。そこで、相手役を誰にするかマネージャーと相談して、前年に「誰に恋せん」で共演した大映のスターの若原雅夫さんを引き抜くことにした」と[6]。
この『別れのタンゴ』も、レコードと共にヒットしたので、翌年に予定していた『想い出のボレロ』、さらに『情熱のルムバ』と、若原とのコンビが続いた。
若原は 昭和24年(1949年)、5年契約で松竹の専属となり、作品に恵まれて、年間10数本の映画に出演。高峰三枝子との共演では『別れのタンゴ』『情熱のルムバ』など音楽映画3作、永井隆のベストセラー『長崎の鐘』、木下恵介監督がパリ滞在中に学んだ前衛作品に影響された『カルメン純情す』、三島由紀夫の話題作『夏子の冒険』、中村登監督の『旅路』などが評判を得た。この中で、1953年1月封切りの『夏子の冒険』は、2つの記録を残した。物語の概要は、若く美人で良家の娘で主人公の夏子は、突然「世の中が嫌になった。修道院へ行く」と宣言。北海道の修道院へ行く船で、井田毅と言う目の輝いた若者と知り合いになる。話を聞くうちに彼の熊退治に興味を持ち、修道院行きを止めて、毅と共に熊の仇討をする…と言うストーリー。
この映画の2つの記録とは、先ず、『夏子の冒険』が、前年の1952年、日本で初めて製作された総天然色映画『カルメン故郷に帰る』に続く2作目のカラー映画として、評判を得たこと。第2 は物語の面白さ、人気俳優陣の出演などの効果で大きな話題となり、1952年度の日本配給総収入ランキング第4位の大ヒットとなった。【注:映画は1953年1月に封切られたが、会計年度が3月までのため、1952年度作品として扱われた。】 因みに『夏子の冒険』の配給収入額は1億0718万円。2位から4位までの収入額は、僅かに100万円づつの僅差だった[7]。
永井隆の『長崎の鐘』は、長崎の被爆体験をまとめた随筆で、当時のGHQの検閲によりすぐには出版の許可が下りなかったが、1949年に出版が許可され、ベストセラーとなった。映画は、1950年、松竹が永井の亡くなる10ヶ月前に『長崎の鐘』として完成した作品となった。映画で若原は主人公の永井隆を演じた。原爆が投下された長崎の様子、最愛の妻を失い、自身も大学で研究中に被爆。その中で、結核予防のために学生や長崎市民等に行ったレントゲン撮影。さらに、放射能による自身の白血病との闘いの中で、人類愛に満ちた生涯を送った本人を好演した。『長崎の鐘』は、松竹が一般公開前に、永井のために特別上映した。そのことについて、永井隆の子息、誠一(映画では誠)は、自身の著書で、「「長崎の鐘」は1950年8月に完成した。公開に先立ち、松竹は一般公開の前に永井の自宅「如己堂」の前庭に特製の布スクリーンを張って、野外試写会を催された。寝たままで鑑賞した永井は、映し出された長崎の情景や、永井自身、家族らの言動を見つめ、松竹映画の厚情と、思いやりに感謝した」[8]と綴っている。
松竹を退職して1954年にフリーになってからは、佐田啓二に代表される若手の俳優との世代交代の波に押されていた。日活、東宝、東京映画、歌舞伎座などで、主に助演として出演した。その頃のテレビの台頭とともに自身もテレビ出演に方針を替え、多くの作品に出演した。映画では『昭和30年代の日本・家族の幸福 親子編』[9](記録映画社・桜映画社・日本映画新社制作、1961年)のうちの一遍『風光る日に』(55分)に出演している。
芸能界引退後は大阪でクラブやステーキハウスの経営をしていたが[10]、1985年8月12日に一人息子で当時国際基督教大学2年生だった長男を日本航空123便墜落事故で亡くした。長男はコーネル大学での留学を終え、アメリカから羽田に戻り、空席待ちをして、前方窓際の座席に座っていた[11]。事故の知らせを受けた若原は、翌13日に多数の犠牲者の遺体が安置されていた群馬県藤岡市民体育館に駆けつけ、遺体の確認を待った。一週間ほど経って、185センチ以上の長身の遺体が見つかったと連絡を受けた。若原はすぐに自分の息子と信じたが、歯形が使えず本人と認証する術がなかった。しかし長男が一歳の時から足形と手形を記録していたので、これを自宅に取りに戻り、鑑識担当者へ持参して照合した。その結果、長男であることが直ちに確認された。翌19日、長男は芦屋市の自宅に無言の帰還をした。皮肉にも今まで成長の記録として残してきた手形と足形が身元確認の決め手となった[12]。
当時、芸能界を引退し兵庫県芦屋市に居住していた若原は妻と離婚していたが、息子の死をきっかけに再び交流を持つようになり[13]、その後は遺族団体の代表幹事を務めた[14]。
1988年6月に事故の和解が成立した以降の消息は不明である[15]。
田中重雄によれば、「最初の2年間は、宇佐美淳、伊沢一郎、水島道太郎など、トップの俳優陣がでんとしていたので、若原の進出の隙間がなかったから、彼にとり苦しい時代であったはずであった。然し、若原君は決して腐らず、愚痴も言わずによく頑張った。私は大した役も付かなかったこの2年間に、若原君の偉さを認めた。また、ロケーションで天候が悪く撮影が延びると大抵は、愚痴を言ったり酒で憂さ晴らしをするが、若原君は一人黙って読書をしたり、釣りをやったりしていた」と、監督は若原の人柄を褒める[16]。
田中は更に、(1945年の)「別れも愉し」までの彼は、上原謙のイミテーション的存在であった。ところが、終戦後、男優陣が宇佐美一人になったその間隙に(伊沢一郎は未復員だった)、若原が出てきて以来、彼のイミテーション的なものは消滅し、当時30歳の俳優が少ない邦画界に於いて、この世代の風格を備えたのは、彼一人と言っても過言ではない」と言う[17]。
また、評論家の小林勇吉は「先輩の宇佐美や原健策などがトックに大映を飛び出して行ったのに、若原はおとなしく残って仕事をしていた。が、やがて時運到来して、千葉泰樹監督の「花咲く家族」辺りでグンと認められて、松竹まで買われて行くようになれたという過去がある」と言う[18]。
極東シネマでの田中重雄について若原は彼の自伝で、次のように書いている。「田中重雄監督には大変可愛がっていただき、作品にはよく出してもらいました。(註:田中監督の作品に出演した若原の出演映画は15本程) お陰でだんだん仕事も順調になってきました。「雷雨」、「土曜夫人」、「すいれん夫人とバラ娘」等々、大映の二枚目俳優として重宝がられるようになりました」と、監督に感謝している。[19]。
1940年から1948年まで9年間、約50本の映画に出演しているが、一般に「出世が遅い」と言われていた。その根拠を小林勇吉と若原が出演した映画の田中重雄監督が説明している。小林勇吉は先ず、「若原が所属していた新興キネマの大泉撮影所が、東宝、松竹、日活と比べて一級下に見られていた。それ故、若原は自然と一流会社のスターより下位に片付けられたことが、ハンデキャップになっていた。それに、若原は美貌ではあるがタフな所がない。このことも、会社が彼を長く純二枚目に引き留めるに役立ってしまった」と語っている[20]。
然し、一方でその辛抱が実り、田中は次のように評価する。「『時の貞操』(1948年) の若原君は、演技上からは未だ言うべき處があるが、あの渋み、風格には、私も見ていてあゝいい俳優になったものだなあ…との感を深くした次第。『花咲く家族』(1947年) の千葉泰樹氏(監督)は、彼は珍しく癖のない俳優だそうで気に入っている由。千葉さんの『花咲く家族』で彼は、十分にその役の責任を果たし、あのような佳作が生まれ出たのである」[20]。
評論家、映画制作担当者の小倉武志は、『今日までの苦闘10年 若原雅夫物語』 で、次のようなことを述べている。「1950~51年の2年間に若原は二十数本の映画に出演し、「『何でも演ります』の如く無計画な仕事ぶりであった」。「然し、その反面、彼の人気は上がる一方であった。それは演技力より、彼独特の二枚目としての個性、ニュアンスが映画大衆にもてはやされた結果であった」と書いて警鐘を鳴らした。小倉が、『今迄どの映画が自分が出演した中で一番いいと思うか』を尋ねると、若原は「『長崎の鐘』の永井隆。好きだったのは、今までの僕にない新しい役を開拓した作品として忘れえぬ『春の潮』の筈見栄児役、これ位です」と答えた。「これは、彼にとっては大変な寂しさであり、不運でもある」という。「売れっ子は辛いです。先ず、商売本位に企画を立てられますからね。」然し、これは彼だけではない。日本の二枚目スターの共通した嘆きの言葉とも受け取れる[21]。
事実、若原は、上述の2作品について「未だにファンが『あの役は良かった』と言って来る」と語る。そして「かの有名な人格者、永井隆先生になれたことは、一生の思い出になる役でした。あの時、僕は全く真剣でした。人格を汚すような下手なことは出来ないと思い、永井先生になったつもりでやりました。今までの僕にない新しい役を開拓した作品として、忘れ得ぬものです」[22]。
『長崎の鐘』撮影中の1950年春、松竹が現地長崎でロケを開始した時、永井隆に面会している。永井の息子の永井誠一の著書によれば、「主役の若原雅夫氏と月丘夢二さんがあいさつに来室した。永井は、病身であることを忘れたような笑顔で、凛々しく美しい人気俳優に見とれながら談笑した」と書いている[23]。片岡弥吉著の『永井隆の生涯』(中央出版社)には、その時の写真が掲載されている。写真に写った若原は、長崎が爆撃でやられ、妻を必死で探していた時のボロボロになった撮影中の姿で「『如己堂』を訪れて永井氏に会見し、月丘と共に永井氏の性格を学び取ろうと多くの質問をされた。」[24] という。
1949年、『映画ファン』特集記事の中で若原は半生を振り返り、「自分の歩んできた道を振り返って、果たしてこんなことでいいかと僕は今、一つの転機に立った自分を見出します。大船と言う温床で色々の人々から大切にされ、その人々の陰の力で「若原雅夫」として一人前になったような気持ちでいましたが、よりよき俳優になるためには、 今が大切なのだという気がしてきました。人の命は尊いものです。僕は、映画「生きる」を見て、しみじみと生命の尊さを知らされた気がしました。生きている限り、努力しなくてはいけないなと…。俳優「若原雅夫」は、今後大きな障壁に突き当たっても、それを打ち破り、うち破り、突き進んで行かなくてはいけないと思っています。」[25]と語っている。
※太字の題名は、キネマ旬報ベストテンにランクインした作品
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.