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日本の女優 (1916-) ウィキペディアから
真山 くみ子(まやま くみこ、1916年7月2日 - )は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6]。旧芸名は高松 美絵子(たかまつ みえこ)、本名は高橋 美枝子(たかはし みえこ)[1][3][4][5]。1930年代から1940年代にかけての間、新興キネマ現代劇のスター女優として活躍したことで知られる[1]。
1916年(大正5年)7月2日、福島県に生まれる[1][4]。1934年(昭和9年)、旧制・麹町高等女学校(現在の麹町学園女子高等学校)を卒業する[1]。
1935年(昭和10年)、トーキーによる現代劇を製作するスタジオである、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社する[1][3][5]。最初の芸名は「高松美絵子」で、もっとも初期に記録に残る作品は、阿部豊が監督し、日活、協同映画社、太秦発声映画、ゼーオー・スタヂオ、日本ビクター各社が提携して製作した大作『海国大日本』で、広瀬恒美演ずる「松井敏夫」の妹「静子」役であった[2][3][4][5]。同作は、同年5月27日に日活が配給して公開された[3]。満18歳での同作への出演が、真山のスクリーンデビューとなった[1]。167センチメートルという長身と美貌で、日活京都撮影所の大スター俳優大河内伝次郎の目に止まり、時代劇映画『千両礫』での大河内の相手役に抜擢されたが、芝居がおぼつかなく、途中降板の憂き目に遭った[1]。
翌1936年(昭和11年)、新興キネマ(のちに合併して大映、現在の角川書店映像事業部門)に移籍し「真山くみ子」と改名する[1][2][3][4][5]。記録にみられる同社での最初の出演作品は、同年10月9日に公開された、新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)が製作し、伊奈精一が監督した『小間使日記』で、準主演級の役どころであった[2][3][4][5]。1週間後の同年10月15日に公開された、高田稔の高田プロダクション製作、牛原虚彦監督の『兄の誕生日』では、高田の演じる「兄」の妹役で高田に次ぐ主演であった[3]。以降、1941年(昭和16年)11月13日に公開された、同社での最後の作品にあたる深田修造監督の『太陽先生』にいたるまで、大作や山路ふみ子らの主演作以外では、ほとんどが主演か立松晃、宇佐美淳、清水将夫、若原雅夫ら主演俳優の相手役を務め、新興キネマ現代劇のスター女優でありつづけた[1][2][3][4][5]。
1942年(昭和17年)、戦時統制のため、新興キネマが大都映画や日活の製作部門と合併し、大映を形成すると、真山はそのまま在籍し、戦時中で日本全体の製作本数の減るなか、島耕二監督の『山参道』(同年)、小石栄一監督の『八処女の歌』(同年)、沼波功雄監督の『結婚命令』(1943年)等で主演を果たすことが出来た[2][3][4][5]。
1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終了後、初めて出演した映画は、翌1946年(昭和21年)1月10日に公開された田中重雄監督の『幾山河』、主演作であった[2][3][4][5]。同作は終戦後に映画配給を始めた大映が配給した作品であったが、本作をもって大映を退社した[1]。以降、真山は3年のブランクを経て、1949年(昭和24年)3月1日に公開された、芸研プロダクション製作、クラタ・フミンド監督の『殿様ホテル』でふたたびスクリーンに登場した[1][2][3][4][5]。真山は満32歳になっていた。1950年(昭和25年)10月28日に公開された、大映時代の『結婚命令』(1943年)以来7年ぶりの顔合わせの沼波功雄監督のオムニバス映画『東京十夜』では、おなじ日活多摩川撮影所出身であり、かつて新興キネマ東京撮影所での『脱線令嬢』(監督曽根千晴、1937年)でフィアンセ役で共演して以来、『たのしき今宵』(監督伊奈精一、1938年)、『乙女ごころ』(同)、『結婚真剣勝負』(監督沼波功雄、同年)等、共演作も多かった立松晃と、ふたたび共演している[2][3][4][7]。この時期は、伊賀山正徳、原千秋といった、かつての新興キネマ東京撮影所(当時の太泉スタジオ)と関係のあった監督と、少ない仕事をしていたが、『東京十夜』が最後の主演作となった[2][3][4][5]。
1953年(昭和28年)12月28日に公開された、斎藤寅次郎監督の『初笑い寛永御前試合』以降は、新東宝を中心に脇役俳優として、母親役等を大いにこなした[2][3][4][5]。1955年(昭和30年)からは新東宝専属となり、1957年(昭和32年)からはテレビ映画にも進出した[1][6]。1958年(昭和33年)1月26日に公開された石井輝男監督の『天城心中 天国に結ぶ恋』では、前年の暮れに起きたばかりの「天城山心中」を扱う物語のなかで、嵯峨浩にあたる「王氏夫人・治子」の役を演じた[2][3][4]。新東宝での出演は、1960年(昭和35年)1月23日に公開された、小林悟監督の『危険な誘惑』が最後になり、同年退社した[1][2][3][4][5]。
『芸能人物事典 明治大正昭和』には、1963年(昭和38年)4月14日に公開された、近江俊郎監督の『その結婚異議あり』に出演後、引退したように記されているが[1]、同年夏から秋にかけて、テレビ映画『愛より愛へ』に出演している[6]。確かにテレビ出演もそれが最後になり[6]、1964年(昭和39年)以降は、当時盛んであった成人映画、いわゆるピンク映画に、母親役等で出演をするようになった[2][3]。三田浩が代表取締役を務める東京企画[8][9]製作の作品を中心に出演した[2][3]。満52歳になり、1968年(昭和43年)10月に公開された沢賢介監督の成人映画『夜の寄生虫』(『寄生虫』)に出演して以降は、活動の記録がみられなくなった[2][3][4][5]。同作以降に引退したものとされ、以降の消息も不明である[2][3][4][5]。存命であれば、満108歳の高齢である[1][4]。
2012年(平成24年)7月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、真山の出演した作品のうち、『若妻』(監督伊奈精一、1939年)、『情熱の翼』(『熱情の翼』、監督小石榮一、1940年)、『真人間』(監督伊奈精一、同年)、『激流』(監督小石榮一、同年)、『北極光』(監督田中重雄、1941年)、『山参道』(監督島耕二、1942年)、『八処女の歌』(監督小石栄一、同年)、『新己が罪』(監督毛利正樹、1956年)、『夜の寄生虫』(『寄生虫』、監督沢賢介、1968年)の9作の上映用プリント等を所蔵している[5]。
文化庁「日本映画情報システム」、および日本映画データベース、キネマ旬報映画データベース、東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵映画フィルム検索システム、テレビドラマデータベースに掲載されている出演作の一覧である[2][3][4][5][6]。役名のないものもすべて出演作、初期の特筆以外、すべて「真山くみ子」名義での出演である。
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