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日本の絵本作家 ウィキペディアから
舘野 鴻(たての ひろし、1968年 - )は、日本の絵本作家、生物画家。名前の表記については、2019年以降、カナ表記の「たての ひろし」も使用している。
神奈川県横浜市に生まれる[1]。幼少期、近所に住んでいた熊田千佳慕の家へ絵を習いに行っていた母に連れられて通ううち、交流を深め、出入りするようになった[要出典]。
中学時代、退部する友人に頼まれて生物部に入部。オサムシを好きになる[要出典]。
1986年、札幌学院大学へ進学[1]。北海道の自然の中で、昆虫採集に熱を入れる。野生生物の観察を行いながら、演劇や舞踏、音楽活動を行う[1]。大学中退後は舞台美術、報道カメラマン助手、 生花店などの仕事をしながら音楽活動や 生物観察を続ける[2]。
1992年、横浜に戻る。土木作業員、 配送業の仕事をしながら現代美術に触れる[要出典]。
1994年、熊田千佳慕に神奈川県立生命の星・地球博物館名誉館員の高桑正敏を紹介される。高桑にアジア航測を紹介され、生物調査のアルバイトを始める。[要出典]その後、現地調査の傍ら、同社が調査・編集する書籍類・報告書などで、生物画を始めとする各種イラストを手がける[3]。
2000年、アマチュアの昆虫研究家に学研で図鑑に掲載する標本画、生態画、解剖図プレートの仕事を紹介される[要出典]。
2002年、初めての図鑑の仕事『原色ワイド図鑑 昆虫I・II』が出版される。その後、「学研の科学」でも解剖図を手掛ける。監修の研究者が納得する絵を求めて、自分の手で観察対象の解剖を繰り返し、詳細に描きとめる。この経験が、学術的事実に忠実な画風を生み出す背景となった。[要出典]
この後、『学研わくわく観察図鑑』シリーズで『ザリガニ』(2005年)、『メダカ』(2006年)が相次いで刊行された。
学研の編集長に写真家・久保秀一を紹介され、久保に偕成社で絵本を出版することを勧められる。偕成社の編集者から3作のシリーズを提案され、『しでむし』『たかねひかげ』『つちはんみょう』を企画した。折から写真技術の向上により、リアルイラストの需要が大幅に減少して、廃業を考える。辺境の虫を主役に絵本をかこうと構想し、熊田千佳慕に相談。永野昌博博士の論文を手渡される。その論文が決定的なきっかけとなり、絵本『しでむし』の制作を始める。[要出典]
しかし第2弾の『たかねひかげ』は地味な題材で出版社から難色を示された上、高山蝶であるため取材が難しいことから、2008年に出版を断念し、『ぎふちょう』に変更する[要出典]。
2009年に初の絵本作品『しでむし』を偕成社から出版。同書は後に韓国語版(2011年)も刊行された。3月には新潟県十日町市立里山科学館 越後松之山「森の学校」キョロロで、「舘野鴻 絵本しでむし原画展」を開催[4]。同市の松之山がギフチョウの多産地であることから、永野昌博から当地での取材を勧められ、5月より取材を開始する。一方で出版後、ノイローゼ状態になるが、その最中、世界文化社『ワンダーブック』での春の景観図を依頼される[5]。ノイローゼ状態だったこともあり、この絵は、それまでの画風と違うものとなっている[要出典]。『ぎふちょう』は2012年に、『つちはんみょう』は2016年にそれぞれ刊行された。『つちはんみょう』は、2017年に第66回小学館児童出版文化賞を受賞した[6]。
この絵本制作の副産物として、学会でも明らかになっていなかったヒメツチハンミョウの生態を観察から2015年に解明し、翌年、雑誌『月刊むし』(むし社)に「ヒメツチハンミョウの生態」と題した報告を2度に分けて寄稿した[7]。
この間の2010年、仕事の舞台だった「学研の科学」が休刊となる。
2021年、世界最大規模の絵本原画コンクールBIB(ブラチスラバ世界絵本原画展)の国内選考会で『がろあむし』(2020年、岩波書店)が選出される[8]。 2023年、『ねことことり』で第28回日本絵本賞、2024年、『どんぐり』で第29回日本絵本賞を受賞した。
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