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織田氏による日本の武家政権 ウィキペディアから
織田政権(おだせいけん)とは、安土桃山時代の日本の武家政権。織田信長が政権を獲得していた1573年(天正元年)あるいは1568年(永禄11年)から1585年(天正13年)まで成立していた。
信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される[1]。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある[1]。
歴史学者の朝尾直弘は戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している[1]。他方で、2000年には立花京子が、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している[1]。2010年の戦国史研究会開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている[1]。そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている[1]。
このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている[1]。平井上総によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない[1]。以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。
永禄3年(1560年)5月に織田信長は今川義元を桶狭間の戦いで破り、8年後の永禄11年(1568年)に美濃を支配下に置くと、前将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛し、それまで京都で政権を確立していた三好政権の構成員を追放、あるいは屈服させることに成功した。これにより、信長は足利義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立し、自らはその後見人として政権を確立した。
その後、織田信長は伊勢の北畠具教、河内の三好義継、大和の松永久秀ら、畿内における諸大名を支配下に置き、畿内に一大勢力圏を築くに至った。
永禄12年(1569年)1月、信長が義昭の行動を制限する「殿中御掟」を成立させると、両者の対立が顕在化し始めた。ただし、信長が「殿中御掟」を出した意図については、信長による義昭の傀儡化であるとする従来の通説に対する批判が出され、近年では幕府権力の立て直しを意図したものであったと考えられている[3]。
信長は元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いなどで、各地の敵対勢力を降していった。
一方、元亀3年(1572年)12月、武田信玄の「西上作戦」による三方ヶ原の戦いにおいて、信長の同盟者である徳川家康は敗退する。この状況をみた義昭は信玄の上洛と信長の没落の可能性を考えて、信長を切って信玄と結ぶことで政権の維持を図ろうとした。これによって、従来は信長だけでなく彼が擁立する義昭に対抗するために結ばれていた所謂「信長包囲網」は義昭を擁して信長に対峙するものに変わることになる[4]。
元亀4年(1573年)4月に武田信玄は病死し、武田軍は甲斐に引き揚げた。これによって信長包囲網はほぼ崩壊した。
その後、信長は上洛し、一時的な和睦を経て将軍・足利義昭を河内に追放した。これにより、室町幕府は事実上消滅し、畿内に織田政権が確立したのである。その後、信長は浅井長政、朝倉義景、三好義継ら敵対勢力を滅ぼし、畿内周辺を勢力圏に収めた。
天正2年(1574年)に伊勢の長島一向一揆を鎮圧した織田信長は、天正3年(1575年)5月25日の長篠の戦いにおいて徳川家康とともに甲斐国の武田勝頼を破った。さらに8月に越前・加賀で一向宗徒を鎮圧し、同地を支配下に置くに至った。
天正10年(1582年)、織田氏の勢力は畿内近国から、東は甲信から関東の上野にかけて、西は山陽道の備中、南海道の淡路・四国の一部にかけてという強大な勢力に伸張していた。
紀伊に関しては直接的な勢力こそ浸透していなかったが、天正8年(1580年)に石山戦争が終結した後、鈴木孫一と土橋若太夫が仲間割れして分裂し、信長は野々村正成を派遣して鈴木側に肩入れし、天正10年(1582年)1月23日には『信長公記』の記述によると、孫一が信長の承諾を得て土橋を謀殺し、信長の勢力を背景にした鈴木氏の勢力が拡大していた。
越後では上杉謙信が天正4年(1576年)に石山本願寺と講和して織田信長との同盟を破棄し、天正5年(1577年)9月に織田軍を手取川の戦いで破った。しかし、上杉謙信が天正6年(1578年)3月に死去すると、謙信養子の上杉景勝・景虎間で家督を巡る御館の乱が発生した。武田勝頼は越後へ出兵し、景勝・景虎間の和睦を調停するが、勝頼の撤兵中に乱が再発し景勝が乱を制した。これにより武田氏と後北条氏間の甲相同盟が破綻し、勝頼は景勝との同盟を強化し甲越同盟を締結した。
天正8年(1580年)3月には北条氏政が信長に従属を申し入れ[5]、勝頼も信長との和睦を試みるが(甲江和与)、信長はこれを退けている。天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による武田領侵攻(甲州征伐)により勝頼は滅亡し、上杉景勝は北陸と信濃・上野から織田方に圧迫される。さらに景勝は越後北部からも織田方に寝返った新発田重家の反乱を受けて、危機的状況にあった。
西国では、備前の宇喜多氏を事実上従属させた羽柴秀吉が中国路の備中にまで進軍していた。
四国でも、阿波と讃岐に大きな影響力を持つ三好氏の一族である三好康長を天正9年(1581年)1月に四国に渡海させ、在国して長宗我部氏に抵抗していた三好一族を糾合させて阿波東部と讃岐に勢力を伸張させ、さらに3男の織田信孝を総大将とした軍勢を四国に渡海させようとしていた。
九州の大友氏とは天正7年(1579年)に信長が大友義統の官位叙任を奏請したことから誼を結んでおり、またこの前年に耳川の戦いで島津軍に敗れて窮地に立たされていた大友宗麟から島津義久との和睦仲介も依頼されており、その関係から島津氏ともすでに誼を通じていた。
伊達氏など奥州の諸大名も、信長に名馬や鷹を献上するなどして信長に官位叙任の奏請の依頼など誼を積極的に求めており、この頃の信長の威令は全国規模に及ぶようになっていた。
だが、天正10年(1582年)6月2日、信長は家臣の明智光秀の謀反により京都本能寺で自害する(本能寺の変)。このとき、嫡男で織田政権の後継者だった織田信忠も二条新御所で自刃した。
その後、織田家の宿老である羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興、柴田勝家が会談を行い(清洲会議)、織田氏の家督は3歳になる信長の嫡孫・三法師が継ぐことになり、安土城の修復まで織田信孝の元に滞在することとなり、信孝の美濃領有、織田信雄の尾張領有などが決定した[6]。これを羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が合議により補佐することで織田政権の運営を行うことが決定した。
本能寺の変後、北条氏は織田政権から離反し織田領国に侵攻した。徳川家康は織田政権からの許可を得て北条氏の討伐戦を行った[7]。家康はさらに上方へ援軍の派遣を要請したが信雄派と信孝派の対立が起き、援軍の派遣は中止され、その後信雄、信孝双方から和睦の勧告があり、北条氏と徳川氏は停戦した[8]。
清須会議後、信雄と信孝の間で対立が起きた。天正10年(1582年)11月、信雄派の秀吉は大徳寺で羽柴秀勝を喪主として織田信長の葬儀を行った。秀吉は柴田勝家が領国の越前に帰国し、雪で動けなくなった時期を狙い、安土城修復後も信孝が三法師を岐阜に止めた事を名分に信孝を攻撃。三法師成人までの間の織田家家督代行を織田信雄に委ねることを認めさせた。さらに賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒し、秀吉の権力が強化されていった。家督代行となった織田信雄が安土城に入り城下に法令を施行し、前田玄以を京都所司代に任用するなど織田政権を動かし天下人と認識されるまでになった[9]。
この織田家家督代行の織田信雄と羽柴秀吉が対立。徳川家康と組んだ信雄は小牧・長久手の戦いで勝利するが、戦闘を継続できずに和睦し、織田政権は実質的に秀吉の傀儡政権となった。その後、秀吉が関白になり織田政権を吸収して豊臣政権を樹立した。豊臣政権では織田信雄が領土・官位等で優遇を受けたが一大名に転落した。織田秀信・織田秀雄は豊臣一門と同様に遇された。
信長は尾張統一時代から自らに権力を集中する体制を築いていた。信長の下に連枝衆(織田信広、織田信包ら一族)、家老衆、馬廻衆、吏僚衆、近臣衆、武将衆と言った具合である。これらの内、近臣衆と馬廻衆は信長から見出された人材が就任するケースが大半で、尾張時代にこの地位にあった原田直政、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益らはいずれも大名に出世している。武将衆では譜代と外様に分かれており、譜代に柴田勝家、佐久間信盛、森可成らが、外様には西美濃三人衆や佐治為興、水野信元らがおり、信長は外様統制の一環として婚姻策を用いている[116]。
この体制は美濃に進出すると組織が肥大化し、また美濃支配と共に優秀な人材が増加したため、馬廻衆とは別に小姓衆も組織化され、この組織には嫡男以外の男子、すなわち前田利家、佐脇良之、万見重元らが所属した[116]。彼らは信長の側近として権勢を振るう一方、取次や側近としての役割を果たし、年齢が長じては大名などのエリートコースも約束されていた[116]。
信長が上洛を果たし、畿内を支配下に置いて政権の体制を成すと、旧政権の三好政権や室町幕府からの人材として明智光秀、松永久秀、荒木村重、細川藤孝らが加わり、またそれによってさらに組織が肥大化し、特に信長の権力が強大化したため、信長の吏僚衆・近臣衆だけでも右筆・同朋衆、奉行衆(側近)、奉公衆(代官)に分かれる事になった[117]。
信長が嫡子・信忠に家督を譲ると、織田家の当主となった信忠には信長とは別の組織が付属され、家老衆に河尻秀隆、側近衆に前田玄以らが付属されている[117]。
信長が天下人として統一事業(天下布武)を推し進めた政権の過程には、室町幕府の滅亡と戦国時代の終結という時代の画期があり、強力な中央政権の基礎を築き、のち豊臣政権や、豊臣政権を解体しつつ継承した徳川家康による江戸幕府に継承されていった点でも、日本史における近世の創始と通俗的には位置づけられている[118]。また、多くの歴史家たちも、織豊政権を「戦国大名の歴史的な到達形態」「室町後期以来の小領主の結合の必然的な結論」と位置付けている[119]。
黒田基樹によれば、こうした評価が織田政権、豊臣政権に対する一般的な評価であると指摘している[118]。その上で、この評価は、「結果論から必然性を探る、典型的な予定調和論」であると指摘している[118]。今谷明も「日本の近代化にはいくつもの可能性がある複数のコースがあった」と反論している[119]。
2010年代の歴史学では、本能寺の変後、少なくとも天正11年(1583年)の6月までは「織田体制」として政権は機能していたとされている[120]。
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