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第3師団(だいさんしだん)は、大日本帝国陸軍の師団のひとつ。
名古屋方面出身者から構成される師団で、その前身は1873年(明治6年)1月に設置された名古屋鎮台。1888年(明治21年)全国に6個あった鎮台が師団へ改編される中、第3師団へと名前を変えた。200個を数える陸軍師団の中でも最古の師団の一つである。
日清戦争では、朝鮮に上陸して平壌攻略、海城・牛荘の戦いに参加。日露戦争では、南山会戦、遼陽会戦(隷下の歩兵第34連隊第1大隊の活躍が著名。橘周太参照。)、沙河会戦、奉天会戦に参加した。
1912年(大正元年)11月30日に第3師団軍楽隊を名古屋市南外堀町に設置した[1]。1918年6月7日、兵器部が事務を開始した[2]。 1913年(大正2年)11月13日から17日、名古屋周辺で行われた陸軍特別大演習に参加した[3]。
シベリア出兵では、ザバイカル方面で革命軍と交戦、チェコ軍団の救援にあたり、山東出兵に参加。
1930年(昭和5年)6月30日、静岡県内を行幸していた昭和天皇が、野戦重砲兵第2連隊を視察[4]。同年11月26日、北伊豆地震の発生に伴い三島に駐屯する野戦重砲兵第2連隊、野戦重砲兵第3連隊が救援活動に出動。名古屋からも工兵2個中隊、救護班などが出動[5]。
満洲から帰国した翌年の1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発、第3師団は第11師団とともに上海の在留邦人救援という名目で編成された上海派遣軍の指揮下に入り、8月23日上海郊外の呉淞に上陸(第二次上海事変)、呉淞の中国軍の抵抗は激しく、第9師団・第13師団・第101師団・重藤支隊の増派と、更には第10軍の増援を仰ぐものの中国軍を撃破、続いて南京攻略に参加した。
1938年(昭和13年)2月14日には、新たに編成された中支那派遣軍戦闘序列に編入されて徐州会戦に参戦、同年8月22日には第2軍戦闘序列に編入、武漢作戦を戦った。同年12月9日には第11軍戦闘序列に編入され、その後戦線が膠着して多くの師団が占領地の警備を新設師団に委ねて復員するなか第3師団は華中方面に駐屯し続けた。
太平洋戦争開戦後も第11軍隷下華中に在り、この方面で行われたさまざまな作戦に参戦した。1944年(昭和19年)には大陸打通作戦第二段の湘桂作戦に参戦して広西省に進攻、9月6日に零陵飛行場を、11月4日には桂林第1飛行場を占領し、11月4日に柳城・柳州北岸を攻略、一時貴州省まで進出し12月2日には八塞を占領した。作戦終了後は第11軍司令部の置かれた柳州の南側の南寧方面の警備を担当、なお西側の宜山方面は第13師団、北東側の桂林方面は第58師団が担当した。
1945年(昭和20年)になると戦局の変化から広西省方面の日本軍は撤退を開始、4月18日に第13師団と共に支那派遣軍直轄師団となり南寧の警備を第58師団に譲って上海方面に向けて移動中に鎮江で終戦を迎えた。
鎮台が改編され師団が創設された際の明治21年5月12日勅令第31号と、1937年(昭和12年)の日中戦争勃発前の陸軍常備団隊配備表によると、第3師団は次のように配備されていた。また1941年(昭和16年)には歩兵第18連隊を第29師団に転用し三単位編制に改編された(括弧内の地名は衛戍地)。
1888年(明治21年)
1937年(昭和12年)
明治9年(1876年)に、岐阜県内に砲兵演習場を開設した。これは後に陸軍の飛行場となり、第二次世界大戦後は進駐軍、駐留米軍の基地を経て、航空自衛隊の岐阜基地となっている。
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