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日本の武士 ウィキペディアから
松永 正敏(まつなが まさとし、嘉永4年6月1日(1851年6月29日) - 明治45年(1912年)2月18日)は、日本の陸軍軍人[1]。陸軍中将正三位勲一等功二級男爵。幼名・山平。
熊本藩士、郡吏・松永和吉の二男として山鹿郡中富村に生まれる。明治4年(1871年)、伏見青年学舎を経て伏見教導隊に入る。二等伍長、二等軍曹、権曹長、曹長と昇進し、明治6年(1873年)5月、陸軍少尉に任官し歩兵第19大隊付となる。明治7年(1874年)5月から10月まで台湾出兵に従軍。歩兵第14連隊付、近衛歩兵第2連隊付などを経て、陸軍戸山学校で学んだ。明治10年(1877年)3月から10月まで西南戦争に出征した。
近衛局参謀、東部監軍部参謀、歩兵第4連隊大隊長、広島鎮台参謀、監軍部参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長、対馬警備隊司令官、広島大本営付等を歴任し、日清戦争には歩兵第2連隊長として出征し、田庄台や営口での戦闘に参加した。第7師団参謀長などを経て、明治33年(1900年)4月、陸軍少将に進級。
日露戦争に歩兵第3旅団長として出征し、鴨緑江会戦から沙河会戦までを戦い、奉天会戦直前に第3軍参謀長に転ずる。明治38年(1905年)3月、会戦後の追撃戦で重傷を受け帰国。留守歩兵第3旅団司令部付を経て、同年10月、陸軍中将となる。明治40年(1907年)9月、男爵を叙爵し華族となる。第3師団長を経て第2師団長となり、朝鮮駐剳中の明治45年(1912年)京城にて死去した。
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