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1656-1715, 江戸時代前期~中期の俳人、近江蕉門 ウィキペディアから
森川 許六(もりかわ きょりく)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平という。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士で、絵師でもあった。
明暦2年8月14日(1656年10月1日)、佐々木高綱を遠祖とする300石取りの彦根藩士森川與次右衛門の子として彦根城下藪下に生まれる[1][2]。21歳で井伊直澄に仕える。天和2年(1681年)27歳の時、父親が大津御蔵役を勤めたことから、許六も7年間大津に住み父を手伝う[3]。
武士として剣術・馬術(悪馬新当流)・槍術に通じ、槍については宝蔵院流槍術鎌十文字槍の名人であった[1][3]。許六は若い頃から漢詩を修め、絵は狩野探幽の弟で奥絵師の狩野安信に学んだという[4]。また自著「俳諧問答」(俳諧自讃之論)の中では、延宝の初め(1670年代前半)に和歌や俳諧は初め北村季吟・田中常矩などに学んだとし、談林派の俳諧に属していた[2][5]。元禄2年(1689年)33歳の時、父が隠居したため跡を継ぐ。この頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた[6]。
元禄5年(1692年)江戸深川にいた芭蕉に入門[3]。従来、六芸に通じた多芸の才人であったことから、芭蕉から、「許六」という号を授けられたといわれてきた[3]。しかし、許六の号は、元禄4年の発句など芭蕉入門以前から見え、芭蕉が与えた号との説は成り立たない[7]。また、六芸に通じたことに由来とするという点も、許の字に何かに通じるとの意味はなく、疑わしいという[8]。 その上で、宝蔵院流の免許「六韜」の伝授を許されたことに由来するのではないかとの説が唱えられている[9]。
芭蕉への入門に際し、許六が詠んだ「十団子も小粒になりぬ秋の風」という句を芭蕉は激賞した[2]。許六が芭蕉から指導を受けたのは10か月に満たないが、芭蕉は許六に俳諧を教え許六は芭蕉に絵を教えたと伝えられる[3][5]。元禄6年(1693年)彦根に帰る際に芭蕉から「柴門之辞」と俳諧の奥伝書を授けられた[5]。
彦根では、芭蕉遺愛の桜の木を切って芭蕉像を作り河合智月(智月尼)に贈ったと伝えられ、また芭蕉の門人で彦根西郊平田にある明照寺の住職河野李由とは、元禄15年(1702年)俳書「韻塞(いんふたぎ)」・「篇突(へんつき)」などを共同編集し、彦根の俳諧界をリードした。また、宝永3年(1706年)「十三歌仙」、正徳2年(1712年)「蕉風彦根躰(ひこねぶり)」、聖徳5年(1715年)「歴代滑稽伝」(同五年)など選集や作法書を編んでいる。そして門人として直江木導・松居汶村・北山毛紈・寺島朱迪などを指導した。
晩年、宝永4年(1707年)52歳頃から癩病を病み、同7年(1710年)井伊家を辞し、家督を養子の百親に譲る。(旧暦)正徳5年8月26日(1715年9月23日)に死去した。
娘婿の百親は、宍戸氏の出で、安芸宍戸氏の宍戸隆家の孫、宍戸景好の直系子孫に当たる(宍戸景好 - 元真 - 知真 - 森川百親)[10]。寛永14年(1637年)頃に百親の祖父宍戸元真が萩藩を辞して、彦根藩士となった。養父同様宝蔵院流槍術鎌十文字槍の名人で、「宝蔵院流十文字目録並目録外」を記して後世に伝えている[11]。
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