Loading AI tools
日本のギタリスト ウィキペディアから
ザ・ベンチャーズの影響を受け、ギターを始める[1]。最初のうちは兄が使っていたクラシック・ギターを触っていた[1]。中学時代から同級生とバンドを組み、どぶ板通りにあるバーで演奏していた[1]。横須賀基地周辺で音楽活動をしていたため、日本人相手に演奏することは少なく、アメリカ人相手の演奏が多かった[1]。
その後自身のバンド、ジュリエットを結成[2]。アルバム「Yokosuka Bay」を発売する。
この頃から東京でロック・フェスティバルに出演することが増え、ワンステップフェスティバルにも出演した[1]。その他の活動では、ガロのバックバンドを務める[1]。
1978年、泉谷しげるのアルバム「’80のバラッド」をきっかけに泉谷のバックバンドである、BANANAに参加する[1]。ベースは吉田建だった。
1980年、沢田研二のバックバンド、オールウェイズに参加する。この年から柴山は40年以上、沢田のバックギターを務めることとなる。
1981年、オールウェイズはメンバー変更を経てエキゾティクスとなり、1984年9月の解散まで活動する。エキゾティクスでは沢田がプロデュースしたオリジナル・アルバム「Library」を1983年10月に発売。柴山は「INNOCENT -STEP ON SHADOW-」「YOU CAN TELL ME HOW」「TONIGHT -BREAK MY HEART-」の3曲で作曲とボーカルを務めた。
1988年に再び沢田のバックバンドKrís Krínglに参加、翌1989年から引き続き沢田のバックバンドJAZZ MASTERに参加した。以降一貫して沢田のバックギタリストを務めている。
1990年、久宝留理子の1stアルバム「プラスチック・マン・ライフ」を、1991年には2ndアルバム「COOL」の音楽プロデューサーを務めた[3]。
2008年、沢田の還暦記念で京セラドーム大阪と東京ドームで開催された人間60年・ジュリー祭りに参加。6時間半で82曲を演奏した[4]。
2018年から、沢田のコンサートのバック演奏を、柴山のギターのみの体制に変更。沢田と柴山の2人だけのステージ体制は2021年まで続いた。
2020年の沢田のシングル「Help! Help! Help! Help!」では沢田と共にダブルクレジットで名前が載っている。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.