トップQs
タイムライン
チャット
視点

松平忠倶

ウィキペディアから

Remove ads

松平 忠倶(まつだいら ただとも)は、江戸時代前期の大名遠江国掛川藩の第2代藩主、後に信濃国飯山藩の初代藩主。桜井松平家9代。官位従五位下遠江守

概要 凡例松平忠倶, 時代 ...
Remove ads

略歴

寛永11年(1634年)、掛川藩主・松平忠重の長男として誕生した[2]

寛永16年(1639年)2月12日、6歳の時に父が死去した[2]。3月3日付けで家督を継ぐことが認められたが[2]、幼少であったために[3]即日信濃国飯山藩への移封を命じられた[2]。将軍徳川家光への拝謁はこれよりも遅れ、7月9日となった[2]。帝鑑間伺候という席次は、以後桜井松平家の例となった[2]

正保3年(1646年)12月、従五位下・遠江守に叙位・任官する[2]万治元年(1658年)から大坂加番に任じられ、その後も要職を歴任した。

藩主として初めて領国に入ったのは承応2年(1653年)のことであった[2]。寛文4年(1664年)に領知朱印状を下される[2]。藩政においては播磨国出身の野田喜左衛門(正満)を登用し[5][注釈 2]千曲川の治水工事や灌漑水路の開鑿・新田開発を行い[3]、飯山藩の基礎を固めた[3]

天和2年(1682年)には越後高田領[注釈 3]の検地業務に当たった[2]元禄8年(1695年)3月に4回目の大坂加番に任じられて任地に赴いたが病に倒れ、元禄9年(1696年)5月26日に大坂で病死した[2]。享年63[2]

嫡男の忠継は病によって元禄7年(1694年)に廃嫡し[7]、忠継の長男である忠敏を後継者とした[7]。しかしその忠敏も間もなく早世したため[7]、忠敏の弟にあたる忠喬が跡を継いだ。

Remove ads

系譜

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[8]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

補足

  • 二男も三男も「母は某氏」と記される。三男の記載に、二男と同母であることを示す「母は上に同じ」とは記されていない[7]
  • 養女のうち2人の実父である織田信勝(丹波柏原藩主)は、忠倶の姉の夫である。
  • 『寛政譜』には、養女の1人は「水野土佐守重上」に嫁いだと記され、養女の1人は「水野土佐守良安」の娘と記されているが[7]、重上と良安は同一人物(重上の初名が良安)である[10]
Remove ads

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads