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水野 重上(みずの しげたか、寛永11年11月1日(1634年12月20日) - 宝永4年3月1日(1707年4月3日))は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)[1]第3代藩主。
第2代藩主・水野重良の長男。母は水野忠元の娘。正室は飯山藩主・松平忠倶の養女・覚応院(柏原藩主・織田信勝の長女)。養子に重孟(弟)、重富(水野忠春の六男)、重期(新庄直恒の長男)。松平忠倶の養女となった娘(田中定賢室)が一人。官位は従五位下・土佐守。初名は良安(よしやす)。他に重直(しげなお)。号は良庵。通称は左門。
慶安4年(1651年)7月22日、第4代将軍・徳川家綱に拝謁し、万治元年(1658年)9月25日に父の隠居により跡を継ぐ。同年12月30日、従五位下・対馬守に叙任。寛文3年(1663年)7月、紀州藩主・徳川頼宣に従って紀伊国に入国している。徳川綱教と鶴姫(第5代将軍・徳川綱吉の長女)との縁組に際して、延宝9年(1681年)7月25日に納幣の使者を務めた。
宝永4年(1707年)3月1日に死去し、跡を養嗣子の重期が継いだ。享年74(満72歳没)。法号は知徳院殿常感日応大居士。墓所は神奈川県鎌倉市の高松寺。
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