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日本の江戸時代後期の大名。松前藩一門松前見広次男で、11代藩主 ウィキペディアから
松前 昌広(まつまえ まさひろ)は、江戸時代後期の大名。蝦夷地松前藩の第11代藩主。官位は従五位下志摩守。
文政8年(1825年)8月27日[1]、第9代藩主・松前章広の次男・松前見広の次男として福山城にて誕生。天保4年8月11日、福山から江戸に移る。天保10年(1839年)7月21日、兄・良広の養嗣子となる。同年10月16日、養父・良広の死去により、家督を継ぐ。同年11月1日、11代将軍・徳川家斉にお目見えする。天保11年3月18日、従五位下志摩守に叙任する。
儒学者の山田三川を登用して藩政改革を行なおうとするが、当時の松前藩では藩主の早世が相次いだために重臣・松前内蔵広純(曾祖父の8代藩主・道広の五男)の専横が行なわれていた。このため、昌広は天保13年(1842年)9月、義父・松平乗全の力を後ろ盾にして12月に内蔵を家禄半分にしたうえで失脚に追い込み、江戸で蟄居させた。その上で三川を側用人・表用人として改めて用いて、天保15年(1844年)5月から倹約・風紀粛清・奢侈禁止などを中心とした藩政改革を行った。ただし、昌広は病弱な上に精神病にもかかっていたため、藩政は三川と松前広茂によって行なわれ、昌広は江戸の藩邸で養生していただけであった。
弘化4年(1847年)に入ると、昌広の病状はさらに悪化し、酒色に耽るようにもなったため、嘉永2年(1849年)6月9日、家督を養子・崇広に譲って隠居した。その後は福山城北東の北殿で余生を送り、嘉永6年(1853年)8月8日に死去した。享年29。
父母
正室
側室
子女
養子
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