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東亜同文書院大学(とうあどうぶんしょいんだいがく、英語: The Tung Wen College)は、中華民国上海市に本部を置いていた日本の私立大学である。1939年に設置され、1945年に廃止された。大学の略称は東亜同文書院。
1899年(明治32年)、日本の東亜同文会によって中国(清朝)南京に南京同文書院が設立されていた。この南京同文書院の閉鎖に伴い上海へ移設されて、東亜同文書院大学の前身となる高等教育機関東亜同文書院が設置された。こうした設立経緯などの都合から、東亜同文書院を上海同文書院と通称することがある。
東亜同文書院の中心は商務科であったが、その他に政治科、農工科、中国人を対象とした中華学生部も一時設置されていた。1921年(大正10年)に専門学校に昇格し、1939年(昭和14年)12月には大学に昇格した。1943年(昭和18年)には専門部が付設された。1945年(昭和20年)9月、日本の敗戦に伴い学校施設を中国に接収され、同年閉学した。
初代院長の根津一は東亜同文書院の創立にあたって「興学要旨」と「立教綱領」を定めた。興学要旨に「中外の實學を講じ、中日の英才を教え、一つは以って中国富強の本を立て、一つは以って中日揖協の根を固む。期するところは中国を保全し、東亜久安の策を定め、宇内永和の計をたつるにあり」とし、立教綱領に「徳教を経となし、聖賢経伝により之を施す。智育を緯とし、中国学生には日本の言語、文章と泰西百科実用の学を、日本学生には、中英の言語文章、及び中外の制度律令、商工務の要をさずく。期するところは各自通達強立、国家有用の士、当世必需の才を為すに有り」としたことは、陽明学的な実用主義的立場が重視されていたことを示す。東亜同文書院では儒教の経学を道徳教育の基礎にすえるとともに、簿記などの実用的な学問を重視した。
学生は、(1)日本の各府県が学費を負担する(一部は外務省や南満州鉄道から派遣される)「公費生」、(2)自ら学費を負担する「私費生」で構成されていた[1]。
東亜同文書院大学は、東亜同文会が運営する私立大学であった[2]。ただし、東亜同文書院大学の予算表(昭和14年度から昭和18年度)を見ると、収入の約50%が日本政府からの国庫補助金、同じく収入の約25%が日本の各府県から支払われる公費(各府県から派遣される「公費生」の学資金)であり、公的資金が収入の約75%を占めるという特異な私立大学であった[3]。
岸田吟香の援助を受け漢口で活動していた荒尾精は、1890年(明治23年)に中国貿易実務者を養成するための日清貿易研究所を上海に設立した。 しかし同所は1894年(明治27年)の日清戦争勃発のため閉鎖を余儀なくされ、荒尾は1896年(明治29年)に台湾訪問中に急病死した。 1898年(明治31年)に結成された東亜同文会は、1899年(明治32年)11月、南京に南京同文書院を設立、城内王府園に分院を置いた。荒尾の同志であった根津一を院長として、医学士の佐々木四方志を幹事に据えて、日本人・イギリス人・中国人など各国の講師を招聘、法律や経済、文学などの分野と英語・日本語・中国語などの語学の授業を行っていた。
しかし、義和団の乱によって、近隣のキリスト教会など周辺地域の治安状況が悪化すると、存続不能に陥ったことから分院を閉鎖して、職員や学生とともに上海へ移転することになった。1901年(明治34年)に上海で新たに根津を院長とする東亜同文書院が設立されると南京同文書院はこれに統合された。
1918年10月教職員が中国に関する諸問題を研究するために設置された。1942年東亜研究部に改称。
部内には中国語を専門とする華語研究会、中国に関する統計資料を扱う統計研究室が設けられた。
1923年11月虹橋路校舎内に竣工。コンクリート煉瓦2階建て、137坪。1階に診察室、調剤室、外科室、顕微鏡室、歯科室、患者控え室、2階に病室、看護婦控え室があった。1937年焼失。
1923年11月竣工。コンクリート煉瓦2階建て114坪。1階は支那研究部、教授研究室、2階に閲覧室、事務室が置かれた。別に3階建ての書庫があり、蔵書は10万冊余り。1937年焼失。
長崎仮校舎時に復興図書委員会を設置して復興資金を募り、満鉄図書館などの図書寄贈も受けて65,000冊を蔵した。1945年、中国に接収された。
物産館は1932年に中国の民俗資料を収集、展示し一般に公開するために虹橋路校舎内に設置されたもので、収蔵資料は8千点に及んだ。中華学生部校舎を使用した。1937年焼失。
靖亜神社は1934年に近衛篤麿、荒尾精、根津一を主神とし、中国での活動の中で斃れた日清貿易研究所や南京同文書院を含めた関係者、同窓を合祀して虹橋路校舎内に建立された。 1937年虹橋路校舎焼失後は、海格路校舎内に奉遷され、戦後は1949年埼玉県の東光書院内に再建された。
1902年(明治35年)、外務省から根津一院長に対し、中国西北地方におけるロシア勢力の浸透状況についての調査が要請され、根津は第2期卒業生の5人を現地調査に派遣した。彼らの報告書に対し外務省から支払われた謝礼金を基金として、1907年以降は卒業論文のための「支那調査旅行」いわゆる「大旅行」として書院生による現地調査が制度化された。学生たちは数名から5・6名のチームを組んで夏季の2〜3ヶ月程度東アジアや東南アジアを旅行をした。彼らが収集した地域情報をもとに1915年から1921年にかけて『支那省別全誌』全18巻が刊行され、1918年に研究所として支那研究部が新設されると、大旅行はいっそう組織的に実施されるようになった。しかし末期には日本軍が学生に対し情報提供を依頼するケースもあり、これらの事情があいまって大旅行を「スパイ活動」と見なす中国側の疑惑を呼んだとする見方もある。支那調査旅行、中国調査旅行とも。
1930年(昭和5年)秋、安斎庫治(27期生)は学内に共青団(中国共産党の青年組織)支部を組織、朝日新聞上海総局に勤務していた尾崎秀実と連携しつつ学生運動の中心的指導者となった。さらに彼は中共党員の王学文が指導していた「日支闘争同盟」にも参加し、日本海軍の艦艇乗組員に対する反戦宣伝活動[6](コミンテルン1928年テーゼも参照)に従事した。この組織には安斎のみならず西里龍夫(26期生)・中西功(29期生)など多くの現役書院生および出身者が参加していたが、同年末上海総領事館警察による弾圧で書院生8名が検挙され同盟は壊滅した。翌1931年春、出獄・復学した中西らにより共青団が再建、同年末には「対支非干渉同盟」が組織され、満州事変から第一次上海事変へと動く情勢のもとで、中共に入党した書院生を中心に反戦運動が進められた(第6回コミンテルン大会も参照)。しかし1932年(昭和7年)3月には総領事館警察によって書院生19名が再び検挙され、東亜同文書院における反戦運動は終焉した。
1923年11月竣工。煉瓦2階建て、154坪。1階は喫茶室、娯楽室、社交室、応接室、理髪室、写真暗室、2階は催事用ホール。1937年焼失。
東亜同文書院は全寮制であった。
東亜同文書院大学と愛知大学は別の組織だが、愛知大学は東亜同文書院を前身校と位置づけている。
東亜同文書院大学学長であった本間喜一は、学校の再建を考えて学籍簿と成績簿を上海から持ち帰った。1946年(昭和21年)6月、本間による旧学生・教職員を収容する新大学設立計画が本格化する。しかし、GHQが東亜同文書院大学の復活に難色を示したため、一部の旧教員の就任が見送られることになり、結局、1946年(昭和21年)11月に京城帝国大学や台北帝国大学など外地の学校から引き揚げて来た学生・教職員も含めて愛知大学(旧制大学)が設立された。しかし、愛知大学は東亜同文書院の学籍簿と成績簿を保管して東亜同文書院大学の卒業生の卒業証明書などの発行事務を行っており、実質的な後身校となった。
また、愛知大学は東亜同文書院大学が進めていた華日辞典編纂事業を引き継いで『中日大辞典』を刊行し、さらに1993年(平成5年)には愛知大学東亜同文書院大学記念センターを設立して東亜同文書院関係資料の収集整理ならびに研究を進めている。
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