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中西 功(なかにし こう[1]、1910年〈明治43年〉9月18日 - 1973年〈昭和48年〉8月18日)は、日本の共産主義運動の活動家・中国問題の政治評論家。元日本共産党参議院議員[2]。
三重県多気郡西外城田村土羽に生まれる[2]。三重県で学んだ後、1929年、県費生として上海の東亜同文書院に入る。学生運動を通じ、日支闘争同盟・中国共産主義青年団などに参加し、反帝国主義の活動を行うが、1930年に検挙されている[2]。
1932年の上海クーデターを受けて帰国し、プロレタリア科学研究所で中国研究に従事する[2]。1934年に満鉄調査部に入り大連に赴き、調査執筆活動を行う[2]。公然活動としては満鉄の調査業務として「支那抗戦力調査委員会」の主要メンバーとなり、中国の抗戦力を高く評価し日本の軍事活動を牽制する報告をまとめた。非公然活動では西里龍夫らと共に、中国共産党と通じ、毛沢東ら中共指導部へ情報を提供し、反戦活動、抗日活動などを援助していた。
1942年、ゾルゲ事件関連で「中共謀報団」として検挙され巣鴨拘置所に収容される。その後治安維持法違反及び外患罪で起訴され、死刑を求刑される。獄中で、中国共産党に関する大量の原稿を執筆する。この原稿は戦後『中国共産党史』などとして一部が出版された[2][3]。
1945年9月無期懲役の判決を受けるが、占領軍の釈放指令により1945年10月釈放される。
1947年の第1回参議院議員通常選挙に日本共産党から立候補し当選[2]。しかし1950年1月、日本共産党の路線論争の中で党中央(所感派)と対立し党を除名される。当初は「団結派」を結成し反論を行なっていたが、後に参議院議員を辞職する。その後復党し、1963年まで衆院選旧神奈川2区に出馬したが、返り咲きはならなかった。1963年の神奈川県知事選挙にも落選した[1]。
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