経歴
村田沰冶の四男として山口県吉敷郡山口に生まれた[1]。1911年6月明治学院神学部を卒業した。その後1912年9月に渡米してオーバン神学校で学んだ。1916年に帰国し、大阪同志館神学校教授に就任した[2]。1918年に母校の明治学院に来任し、翌年中学部長となる[3]。しかし、1920年に起きた中学部同盟休校事件の責任をとり部長を辞任し、朝鮮の大邱教会牧師となった[4]。
1925年に明治学院に戻り、神学部で基督教史を担当した[5]。1930年の明治学院神学部廃止後日本神学校教授となり、1933年に同校校長となる[1]。さらに1943年、日本東部神学校初代校長に就任し、翌年日本基督教団教学局長に転じた[6]。
1948年4月、矢野貫城の後継者として、明治学院第5代目院長になる[7]。翌年には明治学院大学学長を兼任した[8]。1953年に指路教会牧師[1]、1955年に日本聖書協会理事長に就任[1]。1957年3月明治学院院長を辞任[9]。1959年に関東学院大学神学部教授となった[1]。1970年にキリスト教功労者を受賞[10]。
脚注
参考文献
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