日本坂トンネル火災事故
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日本坂トンネル火災事故(にほんざかトンネルかさいじこ)とは、1979年(昭和54年)7月11日18時40分ごろ、東名高速道路の日本坂トンネル下り線で発生した多重衝突事故を原因とした車両火災事故である。
衝突事故の被害者のうち4名が即死、3名が車両から脱出できずに焼死し、2名が負傷した。合計173台の車両がトンネル内で火災に巻き込まれて焼失し、鎮火までに約65時間を要すなど大きな被害を出した。
1979年(昭和54年)7月11日18時40分頃、東名高速道路日本坂トンネルの下り線(現:上り右ルート)の出口まで400mの地点で、乗用車2台と大型貨物自動車4台が絡む追突事故が起きた。
本件事故直前、焼津側の出口の近くで大型貨物自動車2台が接触する小さな事故が発生しており、トンネル内でも渋滞が発生していた。これに気がついた名古屋ナンバーのトラックA(三菱ふそう・FU)がブレーキをかけるも、後続の大阪ナンバーのトラックB(日野・KF、鋼材10トン積載)が前方不注意で避けきれずAに追突。このトラックBに乗用車C(日産・サニー)が追突。後ろを走っていた乗用車D(日産・セドリック)は追突した3台を左へ避けてトラックBの側部に接触して停車。乗用車Cの後ろを走っていたトラックE(三菱ふそう・FU、合成樹脂積載)は停車したが、これにトラックF(いすゞTD、松脂積載)が100km/hで追突した。その弾みでトラックEは前に押し出され、乗用車CはトラックEに押されてトラックBの下部に車体全体がめり込み、乗用車Dは車体後部をトラックEに潰され、漏れたガソリンから発火した。この多重衝突でトラックBとFの運転手、乗用車Cの4名が即死し、乗用車Dの3名も脱出できず焼死した。合計で7名が死亡、2名が負傷する惨事となった。事故から数時間後に遺体が発見されたが、火災のため白骨化していた[1]。
事故車両の合成樹脂や松脂といった可燃性の強い積載物も災いして、火災はトンネル内で立ち往生していた後続車に次々に燃え広がった。日本坂トンネルはスプリンクラー設備や排煙装置など、当時としては最新の消防用設備を備えていたが、火の勢いが強すぎて有効に機能しなかった。死亡者以外のドライバーや同乗者たちは全員無事に避難できたが、鎮火まで65時間を要した。なお、名古屋テレビ放送(ANN:テレビ朝日系)の大型中継車もトンネルの中央部分で停止し、テクニカルディレクターやカメラクルーは煙に巻かれる前にカメラ機材などをすべて放棄して避難したという。この中継車を含めて173台の自動車が焼失し、日本の道路トンネルにおける火災としては史上最大規模の事故となった。
事故当時、トンネル情報板は日本坂トンネル手前にある小坂トンネルのさらに約500メートル手前に1基設置されているのみだった。小坂トンネルと日本坂トンネルの坑口はわずか60メートルしか離れておらず、情報板を設置してもドライバーが視認出来ないと判断され、日本坂トンネル入口には設置されていなかった。このため日本坂トンネル内にいた車両はもとより、入口から約800メートル手前の間にいた車両にも進入禁止を告知する手段が全くなく、後続車が火災に巻き込まれたことが、被害が大きくなる一因にもなった。
マスコミ各社の取材陣は静岡口に集中して取材を試みたが、風向の関係で静岡口からの排煙が続いておりトンネルの中に入ることができなかった。しかし、浜岡原子力発電所の取材を終えて帰途についていた静岡放送(JNN:TBS系)のカメラマンや、静岡第一テレビ(NNN:日本テレビ系、1979年7月1日開局)のカメラマンが焼津口からの取材を敢行、トンネル内に進入して火災直後の貴重な映像を収めた。その映像から判明したのは、火災の影響で照明が消えたためトンネル内は暗闇だったこと、スプリンクラー設備がまったく役に立っていなかったこと、焼けただれたトンネル内装、そして他からの放水がない中、懸命に消火活動を行っていた消防隊員の姿であった(静岡側の消防隊は取材陣と同じく入口付近で足止め)。
『静岡第一テレビ10年史』によると、同社開局年の1979年(本件事故の発生年)は、テレビの報道取材に使用するカメラがフィルムカメラ(当時一般的であったキヤノンのスクーピックなど)からVTRへの過渡期であった(ENG (放送)#歴史も参照)。
開局から11日目にして発生したこの大事故取材に際して、系列キー局の日本テレビからはVTRによる取材を念頭に置いた指示や要請が様々寄せられたと言われている。しかし、当時はまだフィルムカメラでの取材が幅を利かせていた時期であり、在京局など基幹局ではVTRカメラの整備が進みつつあったものの、地方局では更新に巨額の予算が必要とされたこともあり、取材・撮影から放送に至るまでにある程度の時間を要していた。
本件事故は翌1980年に同じく静岡市で発生した静岡駅前地下街爆発事故での取材とあわせて、地方局での報道取材にもVTRが導入されるきっかけとなった出来事のひとつであると言われている。
当初はすぐに鎮火し、復旧できると思われていた。しかし、火の勢いが強すぎて有効な消火活動が行えず、トンネル内では数日にわたって炎上が続いた。鎮火後には「トンネル内のコンクリートが崩れ、鉄骨が湾曲していた」、「炎上したトラックの一つに積んであったマグロが燃え尽きて骨だけになっていた」などの被害が次々と明らかになっていった。
この事故で被災した車両はその後、清水IC内の空き地に一旦移動して収容されたが、その後数年もの長きにわたって同じ場所へと留め置かれたままとなった。被災した車両の多くがナンバープレートが溶解して判読不能となり、所有者を割り出すのに時間がかかったことや処理についての問題が解決しなかったためとされているが、清水ICを利用する車両だけでなく、真横を通る国道1号線の車両や歩行者の目にもつきやすいことから、風致的な問題も指摘されていた。その後、処理の目処が立ち撤去され、現在その場所は立体交差式の入出路となっている。
東海道の大動脈である東名高速道路が1週間ほど通行止めになり、7月18日に上り線(現・上り線左ルート)を利用した対面通行で仮開通したものの、完全な復旧は事故から60日後の9月9日を待つこととなった。この影響で静岡県内の国道1号・国道150号などの並行道路(当時静清バイパスは未開通)や、当時全通していなかった中央自動車道の未通区間並行道路では数十kmにも及ぶ大渋滞が発生し、物流に多大な影響を及ぼした。
また、この渋滞によりプロ野球の南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)のユニフォームや野球道具を積載したトラックの到着が大幅に遅れ、7月13日に後楽園球場で開催される予定だった対日本ハムファイターズ(現:北海道日本ハムファイターズ)戦が試合中止を余儀なくされるという出来事もあった[2][3]。
地中には電気ケーブルを保護するために常滑焼で作られた電纜管が埋められていた。塩化ビニール管に比べて熱や外圧に強く、火災でびくともしなかったことで脚光を浴びた[4]。
この事故を教訓にして、トンネル内での防災設備の重要性が再認識された。事故後の対策として消火設備と換気装置が改良され、同時に長距離トンネル内の速度制限(70km/h)と車線変更禁止の措置がとられた。
また前出した情報告知の不備によって、事故の発生を知らずに進入した多数の車両が被害を大きくしたことから、小坂トンネルと日本坂トンネルの直前に4灯式トンネル用信号機(赤色灯が2つ)とトンネル情報板が1か所ずつ、それぞれ増設された。
これらの対策はモデルケースとなり、その後の中央自動車道恵那山トンネル(5キロメートル以上の長大トンネル)、九州自動車道福智山トンネル〜金剛山トンネル(トンネルが連続し、合計で5キロメートル以上となる)などを皮切りに、同様の災害対策が必要とされる長距離道路トンネルに施工されていった。
現在はトンネル周辺の拡幅工事に伴い、当時の速度規制および車線変更禁止規制は解除された。また、事故が起きた下り線トンネルも1998年に改築されて上り線に転用されたことから、設備が変更されている。
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