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境トンネル多重衝突炎上事故(さかいトンネルたじゅうしょうとつえんじょうじこ)は1988年(昭和63年)7月15日21時20分頃[1]、広島県佐伯郡吉和村(現・廿日市市)と山県郡筒賀村(現・安芸太田町)にまたがる中国自動車道の境トンネル上り線で発生した、多重衝突事故を起因とした車両炎上事故である。
この事故で5人が死亡、5人が負傷、さらには事故後に行方不明となっていた関係者の男性が自殺するという惨劇になった。トンネル内部は急カーブとなっているため、後続車による事故の発見が遅れ被害を拡大させることになった。また、トンネル火災事故としては1979年(昭和54年)7月11日に発生した日本坂トンネル火災事故と並ぶ大惨事として当時話題となった。
1988年(昭和63年)7月15日21時20分頃、中国自動車道境トンネル内上り線372.5キロポスト付近で普通乗用車や大型貨物車等、関係車両10台が絡む多重追突事故が発生した。
普通貨物車A(クレーン付き4トン車)がトンネル入り口から約190 mの地点に追越し車線と走行車線をふさぐように停止している[注釈 1]のを大型貨物車Bが発見し、衝突を回避すべく減速した。その後、後続していた大型貨物車Cがほぼ停止状態の大型貨物車Bに衝突し、その反動で大型貨物車Bが押し出され、普通貨物車Aに接触した後トンネル右壁面に衝突して停止した。追突した大型貨物車Cは追い越し車線上に停車した。さらに後続してきた普通貨物車Dが走行車線に停車している大型貨物車Bを目前で発見し急ブレーキをかけたが間に合わず、大型貨物車Bに衝突して停車した。その後、普通乗用車Eと普通貨物車Fが、さらに遅れて普通乗用車Gが進入し、前方の停車車両に気付きそれぞれ停止した。普通貨物車Fは急ブレーキによりスピンしながら逆向きになり追い越し車線上に、また普通乗用車Gは事故車両の最後尾から約50 m後方に停止した[2]。
この時点で衝突による火災は発生しなかったが、大型貨物車Bと普通貨物車Dによって進路が塞がれ、トンネル内は完全に通行不能となった。それから5〜6分遅れて大型貨物車H、I、Jの3台が一団となって、それぞれ100〜110 km/hの速度、車間距離40〜50 mでもって次々とトンネル内に進行してきた。先頭の大型貨物車Hは減速することなく普通乗用車Gを押し潰し、一体となって前方の事故車群に突っ込み、普通貨物車A、普通貨物車D、普通乗用車Eへ次々と衝突して停車した。後続の大型貨物車I、JもHに続くような形で追突した[2]。この際、車から降り車線上にいた普通乗用車E、普通貨物車Fの運転者、普通乗用車Gの同乗者が撥ねられて即死した[3][注釈 2]。
追突によって普通乗用車E、Gは原形を留めない程に潰されてしまい、Gの燃料タンクが完全に潰れた瞬間、炎に包まれ、周りの事故車両に相次いで延焼していった。これにより車内から脱出できなかった普通乗用車Gの同乗者[注釈 3]、大型貨物車Jの運転者[注釈 4]が火災により焼死した。
この一連の事故の後、トンネル内に進入してきた大型貨物車Kは前方の事故に気付いて停車した。火災により煙がトンネル内に充満してきたため出口に向かって後退を始めたが、火災による熱風で運転を継続することが困難となり、やむなくKの運転者は車両を放置してトンネルを脱出した[4][注釈 5]。
この事故により5人が死亡、5人が重軽傷を負い、一部焼損した大型貨物車Bを除く10台が全焼した。大型貨物車Kは事故現場から約100 m程離れていたが、火勢により延焼し積荷の牛13頭が焼死した[5]。
境トンネル上り線は459 mと短いトンネルのため、道路トンネル非常用施設設置基準にて5段階に分けられた等級区分の内 、下から2番目のCランクであり、長大トンネルの様に給水栓やスプリンクラー、強制排気装置等は設置されていなかったが、基準に準じた設備が設置されていたので非常用設備に不備は無かった。事故当時はトンネル直前に非常用警報装置(トンネル情報板)が設置されており、事故発生から5分後の21時25分頃にトンネル内にある押しボタン式通報装置が押された際、それと連動して非常用警報装置が作動したことにより、サイレンが断続的に鳴り、情報板に設けられている赤色ランプが点灯、トンネル情報板に「進入禁止・事故」と表示がなされ後続車がトンネル内に進入しないように進入禁止を告知した[6]。
しかし情報板が作動する前に既に通過していた上、事故を知らないで急カーブにより見通しが効かないトンネルに減速しないまま進入したことで、最初の事故より被害が拡大、死傷者と火災が発生するという悲惨な結末になってしまった。
境トンネル上り線の下り勾配3.9 %、半径610 mの右カーブだけにとどまらず、境トンネルが下り坂に差し掛かってから1.5 kmに位置するトンネルであることが間接的な原因でもある。長い上り坂で減速走行を余儀なくされた大型貨物車などは、上り坂での遅れを下り坂で取り戻そうとする心理状態が働き、下り坂になった途端に加速を始め、速度制限を無視した高速走行の状態になった頃、下り坂で右カーブの見通しが悪い境トンネルに到達する[7]。
トンネル進入直前に大型貨物車Hは下り線を走る大型貨物車とパーソナル無線で交信を行っていたが、この交信相手の大型貨物車は事故の発生直後に境トンネルを通過したばかりであった。しかし境トンネルは上り線、下り線が完全に分離していて、大型貨物車の運転者は上り線で発生した事故を全く知らないまま通過していたため、大型貨物車Hに事故の情報が伝わることは無かった。大型貨物車Hは約100 km/hでトンネルに進入、走行車線を30 mほど進んだところで、前方に普通乗用車Gを発見した。その距離はわずかに約50 mであった。ところが、実は大型貨物車Hの運転者が見た前車とは、普通乗用車Gのさらに50 m前方に停車していた大型貨物車Cであった。彼には普通乗用車Gはおろか大型貨物車Cの後方に停車していた普通貨物車Fすら見えていなかった。それどころか大型貨物車Cが停車しているか、走行しているかの判断すらできなかった。しかし、大型貨物車Hは大型貨物車Cが追越し車線上にあり、走行車線ヘ頭を出していることを確認し、この間を通り抜けることができると思いそのまま進行したが、路上に人を発見し、ここでようやく急ブレーキを掛け左にハンドルを切った。この前に何か衝撃を感じたが、大型貨物車Hの運転者は何によるものか事故後まで全く知らなかった。普通乗用車Gを押し潰し、さらに普通乗用車Eが完全に潰されたことなどは想像もしていなかった。大型貨物車Cは普通乗用車Gと比較して、ひときわ目立つ存在であった(大きい上に白い車体に赤い文字)こと、大型貨物車の視点が乗用車の高さよりも上であること、あるいは高速道路での大型貨物車の前方視点の距離などが、停止している普通乗用車Gを発見できなかった理由として挙げられる。また、トンネルの右カーブによって前方の事故の発見が遅れたことも想定されている。しかし、ここでも運転者が持つ運転継続の意志が極めて強いことが示される。大型貨物車Hは、大型貨物車C、普通貨物車Fの左、すなわち走行車線を通過できると判断し、ブレーキも掛けずに普通貨物車Fのところまで進行し(この途中普通乗用車Gを潰し)、ここで普通貨物車Dの後方に人を発見、やっと急ブレーキを掛けたというのである。前方に事故が発生していても、通行不能であることを認識するまでは10 m、20 mでも目的地に向かって進もうとしているかのように見られる[8]。
このように運転者の自己判断による安全な停止を期待することが困難だとすれば、事故の発生とその規模をできるだけ迅速に知らせる必要がある。一般の高速道路であれば事故は発生と同時に対向車によって発見される。また、後続車両においてもその車間距離が充分であれば前方の事故は容易に察知できる。しかし、トンネル内の事故では、直前の情報板等を見ない限り、後続車はトンネルへ入らないと事故が発生したことさえ分からない。後続車が事故の発生を直ちに発見できない環境が偶発的な玉突き事故を多重衝突事故へと拡大させた上、運転者の運転継続意志の強さがさらに悲惨な大事故を引き起こす原因となってしまったのである[9]。
21時27分頃[10]にトンネル出口付近にある非常電話[注釈 6]から交通管制室へ事故通報がなされ、21時30分に交通管制室から管轄の山県西部消防組合消防本部[注釈 7]に「境トンネル上り線内でトラック3〜4台が燃えており、怪我人がいる」との通報。この通報を受け、21時31分に水槽付ポンプ車1台と救急車1台を出場させた[1]。また境トンネルには消火用の水利を得られる場所が無く、自動車道外からの中継が必要なために非番職員の招集を行い、追加でポンプ車を出場させるよう本部へ要請した[11]。
出場した2台は戸河内ICから下り線へ進み、境トンネル手前に近付くと中央分離帯のフェンスを引き抜き上り線側に進入、通報から17分後の21時47分に出口側に到着する。トンネル出口付近に負傷者1名がいたため中の様子を聞きトンネル内に進入した。事故車両手前約50 m付近に近付くと、大型貨物車Bが進路を塞ぐように停車しておりその後方に炎を確認した[注釈 8]。その際普通貨物車Dから手を振って助けを求める男性を発見したが、足が挟まれていて脱出ができない状態であり救助資機材の必要と判断し、運転席へ迫りくる炎を放水及び備え付けの消火器で延焼防止を行いつつ、トンネル内は無線不感地帯のため直ちに救急車を出口まで引き返しさせて本部に資機材運搬車と地元の筒賀村消防団等の応援を要請した。到着を待つ間も要救助者を迫りくる炎から守るため先着隊は延焼防止に努めた。資機材運搬車が到着後、直ちに油圧スプレッダーを使用して挟まれた運転者[注釈 9]を救出し救急車に収容、22時16分に現発し出口付近にいた最初の負傷者も収容、加計町立病院へ搬送した[12]。救助後は防御体制の再確立を行うために中継送水を待つと共に、ホースを逆延長しながら水槽付きポンプ車を出口まで後退させた[11]。
トンネル入口側からも状況確認を行うため搬送車を向かわせると、入口から黒煙が吹き出しており約70 m先に火災が小さく見える状態であった[注釈 10][注釈 11]。そのため、非番招集員で構成されたポンプ車と消防団の一部をトンネル入口側に向かわせて水利部署とするよう要請した。22時11分入口側にポンプ車が到着し直ちに水利部署が進められ、30分頃に消防団も到着し国道186号線沿いの筒賀川から水利を得て、36分に中継放水が始まりトンネル入口側からの消火活動が開始された。濃煙熱気中のトンネル内を空気呼吸器装着の隊員5人で最後尾の大型貨物車Kの火災を消火、ホースを延長しながら引き続き消火活動に当たった[11]。22時43分にトンネル内火災により呼吸器の増強と消防活動の支援として電源照明車の応援を広島市消防局に要請した。これを受け、広島市消防局安佐北消防署より救助工作車が、同じく安佐南消防署より大型電源照明車が出場した[12]。一方トンネル出口側では、22時55分頃に要請した道路公団の大型散水車(7トン積水)が到着、再びトンネル内に進入し、散水車からの受水により22時57分頃より出口側からの放水を再開した。23時00分に消防団からの送水も始まり、待機していた水槽付きポンプ車へ中継送水が開始され消火活動強化がなされることとなった[13]。同時刻、入口側に避難していた負傷者3人[注釈 12]を救急車に収容し戸河内町立病院へ搬送した[12]。
23時45分頃に応援要請した広島市消防局の救助工作車と大型電源照明車が入口側に到着したことで、防御隊を再編しトンネル内に再進入、入口側と出口側から挟撃し翌16日0時10分頃に火勢鎮圧、25分頃に鎮火に至った。以降は車両引き出し及び、現場検証時の再燃防止の警戒等により、出口側に水槽付きポンプ車以下5名を残し、活動が終了した部隊は撤収作業に入り順次帰署し、8時00分に撤収完了としすべての消防活動を終了した[13]。
出場した車両は応援の筒賀村消防団や広島市消防局を含めて18台、人員は141人に上る。当時の山県西部消防組合消防本部の消防職員数は42名であり出場した職員は38人とほぼ9割が、配備されている消防車両も12台中10台が出場した[13]。
高速道路では日本坂トンネル以来という悲惨な大事故を適切に処理するため、広島県警察では早期に捜査体制を確立した。
まず事故発生直後の7月15日22時30分、「高速道路における重大案件発生に伴う初動措置」に基づいて、交通部長を長とする「現地対策本部(120人体制)」を高速隊戸河内分駐隊に設置した。続いて7月20日に警察本部内に本部長を長とする「総合対策本部(63人体制)」を設置した。高速隊にあっては当務員の中から警部補2人を含む18人の捜査専従班を編成して日勤勤務員にさせた。残った当務員は2交代制とすると共に、非番員は日が暮れるまで実況見分等の捜査を応援に当たった[14][注釈 13]。
消火活動の進展によって明らかになった関係車両11台の内、6台はナンバープレートが火災により溶解してナンバーを読み取ることができなかった。このため、車体番号から車の所有者を割り出し、乗車人員や危険物等の積荷の状況を解明することになった[注釈 14]。しかし深夜のことであり、またレンタカー等もあったためその解明には長時間を要した[注釈 14]。苦労の末に明らかになった関係者は14人と分かったが、現場では13人しか確認ができなかった。遺体が埋もれている可能性があるため、事故現場に積もった瓦礫を幾度となく掘り返して捜索したが、結局発見には至らなかった[14]。
当初普通貨物車Aの運転者とされていた遺体は別人であると判明した[注釈 15]。これにより確認が取れていない人物が普通貨物車Aの運転者と分かったが、依然として行方不明のままだった。そのため、無事に脱出した可能性を考え付近の民家を中心に聞き込み捜査を行ったが、行方や手掛かりを掴むことはできなかった。そして20日午前頃から機動隊[14]を動員した約120人体制でトンネル周辺の山林を捜索した所、13時40分頃にトンネル入口から北約50 mの国道186号線北沿いを流れる筒賀川へ下る斜面の深い茂みの中で[15]、植物のつる[注釈 16]を使い首を吊って亡くなっているのが発見された。遺体の状況から死後数日が経過しており、事故が起きた15日夜から翌日16日の間に自殺したものと推定される。事故を起こした責任を感じ自殺したと思われているが、遺書等の遺品は見つかっていない[15]。また背格好や服装が似ている男性がトンネル入口へ大きく手を振りながら走り出す姿が目撃されていることからトンネルに入ってくる後続車を制止しようとしたものと見られている[16]。1990年3月に広島労働基準監督署はこの自殺を労災と認定し、遺族労災保険保障年金を男性の妻に支払うことを決定した[17][注釈 17]。
異臭が充満し照明が消えて真っ暗いトンネル内で繰り返す実況見分には苦労が耐えなかった。警察の投光機では光度が弱すぎるため、1000ワットのハロゲン球4基を装備した移動式投光機を2台リースした。またスリップ痕などの痕跡発見のため、濡れた路面を温風器3台を用いて少しずつ乾燥させた[14]。この他各車両の位置関係を再現するために原寸大の木枠11台分を作り、人の代わりにマネキン人形を使うなど隊員のアイデアでその場その場を切り抜けて行われた[18][注釈 18]。
今回の事故では関係車両10台が5〜6回の追突を起こしているものの、衝突形態が複雑な上車両の多くが原形を留めない程に大破および焼燬していることから衝突実態の解明には困難を極めた。こうした中科学警察研究所からの指導を受け、車両の突き合わせを行い一部の運転者の供述や、実況見分から想像される衝突形態に車両を突き合わせることによって衝突実態の大部分を解明するに至った。こうして解明された衝突実態を分かりやすく解説するために、事故再現シミュレーションの制作を行った。事故現場や車両の1/100の模型作りからビデオ撮影まで、すべて隊員の手持ちの資機材を駆使して苦労の末に制作された。このビデオは後に広報用として編集され運転者教育に有効に活用される方針となった[18]。
事故発生以後、中国自動車道の上り線では通行止め規制が継続されていた。しかし、長期間に渡る通行止めはあらゆる面での影響が大きいことから迂回誘導の処置が急がれた[注釈 19]。このため2車線ある境トンネルの下り線を利用して対面通行させることとした。[18]早速、道路公団は中央分離帯を90 m切り開き、下り線の中央へレーンディバイダーを設置して車線の分離を行うとともに、車線すり付け部へ道路照明24基を設置した。一方、警察においては対面通行区間3.2 kmを追い越し禁止規制とするとともに、最高速度を40 km/hに制限して事故から3日後の7月18日午後1時より下り線を利用しての対面通行が開始された。事故が発生した上り線のトンネルは実況見分等の捜査活動が終了した8月9日に道路公団側に引き渡された[20]。
復旧は日本坂トンネルでの復旧工事の例を参考とし、試験及び工程の検討を行った。そして引き渡しが行われた9日の夜から復旧工事を着工した。工事工程の設定はトンネル内での上・下作業に関わる危険防止、資材搬入用車線幅の確保及びコンクリート舗装の養成期間に留意した。旧盆の期間においては、交通が混雑することにより一般車両に混じって資材を搬入することが困難となり、また作業員の確保と資材の入手も困難となることから14日から19日の間は一部工程を除き工事を休止することになった[21]。復旧工事は昼夜2交代制で実施され、31日には交通安全対策を含めたトンネル内の復旧工事が完了、翌9月1日正午より上り線トンネルでの通行が48日ぶりに再開され全面復旧した[20]。
境トンネル多重衝突炎上事故後、高速道路の全トンネル464本を対象として、事故発生状況、道路の線形・勾配、交通安全設施設の設置状況及び走行実態等について、高速道路交通警察隊と道路管理者による合同点検が行われた。点検の結果、103本のトンネルが抽出され、より一層の安全対策を強化を行うべく、交通安全施設の整備を実施することになった[21]。
重大事故になった境トンネル多重衝突炎上事故の再発防止対策は、警察と道路管理者である日本道路公団とで協議を繰り返し行った。その結果、実施された交通安全対策は以下の通りである。
運転者へ注意喚起を行うため、トンネル入口の手前(山口方面)へ「下り坂・高速注意」「追突注意・車間距離を十分に」「点灯」等の大型看板の設置を行った。
さらにトンネル入口の上側に「安全は速度と注意と車間距離」の懸垂幕を掲示した[22]。
7月15日の事故から1年余りが過ぎた、1989年(平成元年)8月27日20時30分頃、境トンネル上り線の同じ場所で再び多重衝突事故が発生した。天候も昨年と同じ雨で、トンネル内は一面が濡れていた。
事故の形態も似ており、トンネル内で単独事故を起こしたトレーラーが追い越し車線上に停車、これを発見し停車した大型貨物車へ普通乗用車2台、大型貨物車1台、普通貨物車1台が次々と追突したものである[22][注釈 20]。
幸いなことに今回の事故では火災が発生しなかったため、昨年の事故のような大惨事には至らなかったものの、1年が経過した間に同じトンネル内で同じような形態の多重衝突事故が発生したことは看過できない重大事であった[23]。
このため、境トンネル上り線での交通安全対策を見直すに至ったものである。
境トンネル上り線の第二次安全対策は1990年(平成2年)9月11日に文書をもって日本道路公団へ要請され、日本道路公団において実現に向け検討されている内容は以下の通りである。
これらの設備は順次設置、整備され、現在も一部を除き設置されている。
事故発生から2年後の1990年(平成2年)9月17日20時00分頃、同じ境トンネル上り線の出口付近で普通貨物車が走行車線に横転、事故に気付いた後続の大型貨物車3台が次々と停車した。さらに後続の大型貨物車が普通乗用車に追突し、次々と前方の車両に玉突き衝突した。この後、普通乗用車の後方付近から出火し、普通乗用車前後の大型貨物車に延焼拡大した。
この事故により普通乗用車の運転者が車内から脱出できずに焼死、貨物車の運転者2人が重軽傷を負った。また大型貨物車と普通乗用車が全焼、大型貨物車1台が部分焼した。幸い事故が起こった場所がトンネル入口付近であったため、後続車がトンネルに進入してさらなる多重衝突事故に発展する事態は防がれた。
消火活動中、大型貨物車に危険物標識があり積載物が爆発を繰り返したため一時放水が中断されたが、この爆発は積荷であった缶ジュースが熱膨張により破裂したことが判明したため、放水を再開し事故発生から1時間40分後の21時40分に鎮火した。事故当時は雨が降っていたため、普通貨物車が運転を誤りスリップしたものと見られている[24]。
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