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日本文化史において、文学や芸術に通じた知識人 ウィキペディアから
日本文化史の用語としての文人(ぶんじん)は、中国文化史の文人を念頭に、文学や芸術に広く通じた知識人を指す。例として、服部南郭・祇園南海・柳沢淇園・木村蒹葭堂・頼山陽・富岡鉄斎らが挙げられる。文人文化[1]・文人趣味[2]・文人意識[3]・文人サロン[4]などとも表現される。
中国の文人と同様、明確な定義は無い[5]。中国の文人が科挙官僚(士大夫)と表裏一体だったのに対し、日本には科挙が無かったことなどから、日中の文人は似て非なる存在である[5]。
揖斐 2009 は先行研究を総合して、以下の4点を文人の要件としている[6]。
具体的には、文人画(南画)[7]・書道[8]・漢詩[8]・狂歌[8][9]・随筆[8][10]・読本[8]・戯作[8][11]・煎茶[8][1][12]・陶磁器[1]・古銅器[13]・投壺[8][14]・古琴[14]・飼育園芸[14]・篆刻[8][15]・文房趣味[8][16]・好古趣味[17]といった趣味を嗜んだこと(文人趣味)、サロン的な交友ネットワークを築いたこと(文人サロン)[4]、一字姓の慣習(例えば服部南郭=服南郭)に顕著なように、古代中国への憧憬を抱いたこと[18]、老荘的[1]・壺中天的[16]な隠逸を志向したこと、などの特徴が挙げられる。
文人と呼ばれる人物は、江戸時代中期[6](享保ごろ[19]・宝暦天明文化期)以降に多く現れた。その筆頭として、服部南郭ら古文辞派の漢詩人や[16][6]、祇園南海・柳沢淇園が挙げられる[6]。ただし、戦国時代の三条西実隆[20]、平安時代の菅原道真ら[21][22]を文人として取りあげる研究もある。
江戸時代の文人は、様々な職業や身分の人間が、隠退後や余暇に兼業するものだった[8]。しかし幕末になると専業的な文人も現れた[8]。
文人の研究は、20世紀後半、中村幸彦が開拓し[17][24]、日野龍夫らが後に続いた[17]。中村幸彦は、青木正児による中国文人の研究を踏まえていた[25]。
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