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鎌倉時代の皇族。鎌倉幕府7代将軍。 ウィキペディアから
第6代将軍宗尊親王の嫡男として相模鎌倉に生まれる。文永3年(1266年)7月、父が廃されて京都に送還されたことに伴い、3歳で征夷大将軍に就任した。親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、文永7年(1270年)12月に臣籍降下して源姓を賜与され、源惟康と名乗る(後嵯峨源氏)。今日では一般に「惟康親王」の名で知られ、宮将軍の一人として扱われることが多いが、将軍在職期間の大半を源惟康、すなわち源氏将軍として過ごしていた[注釈 1]。
細川重男の説によれば、惟康が源氏将軍であったことは、当時の蒙古襲来(元寇)という未曽有の事態に対する、執権・北条時宗による政策の一環であったという。時宗はかつての治承・寿永の乱あるいは承久の乱を先例として、7代将軍・惟康を初代将軍・源頼朝になぞらえ、時宗自身は高祖父の義時になぞらえる[注釈 2]ことで、御家人ら武士階級の力を結集して、元に勝利することを祈願したのだという[注釈 3]。弘安2年(1279年) の正二位への昇叙、弘安10年(1287年)の右近衛大将への任官はいずれも頼朝を意識してのものであり、北条氏がその後見として幕政を主導することによって、同氏による得宗専制の正統性を支える論理としても機能していた。特に源氏賜姓と正二位昇叙はいずれも時宗政権下で行われており、時宗が源氏将軍の復活を強く望んでいたことが窺える。一方、曽我部愛は当時の皇室の内部事情も背景にあったことを指摘している。父である宗尊親王は後深草・亀山両天皇よりは下位であるものの、将軍在任中も皇位継承権を持ち続けた後嵯峨上皇の皇統(王家)の主要な成員であり、彼を京都に送還した鎌倉幕府も退任後も一定の配慮をし続けた[5]。しかし、文永5年(1268年)に後深草天皇の皇子を差し置いて亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)が立太子されたことで、宗尊親王の子孫が皇位を継ぐ可能性が失われたことに対応した措置であったという[6]。
建治3年(1277年)7月に惟康の御所が新調された際、惟康の入御を見計らって時宗自らが庭に下りて着座し惟康を迎えた。御家人も時宗にならい庭に下りて列した(『建治三年記』19日条)。権力を掌中に収めていた時宗による惟康への礼遇であり、将軍として一定の権威が維持されていたことを示している。弘安7年(1284年)に時宗は死去するが、その後も安達泰盛や平頼綱が時宗の遺志を受け継いだ。弘安8年(1285年)に泰盛が頼綱に滅ぼされた霜月騒動の際には、将軍御所にも火の手がおよび全焼している。その後、頼綱執政下の弘安10年(1287年)に惟康は右近衛大将に任じられた。しかしわずか3か月後に辞任し、幕府の要請で皇籍に復帰して後宇多天皇より親王宣下がなされた[7]。俗人の孫王(天皇の孫)が親王宣下されるのは歴史上初めての事例で、後に9代将軍となった守邦親王にも踏襲されている。
なお前述の細川の見解では、将軍の親王化を目指す頼綱の意向によるもので、執権北条貞時が成人した惟康の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望み、惟康追放の下準備を意図したものであったとしている[注釈 4][8]。一方、前述の曽我部の指摘によれば、親王宣下もまた当時の皇室の内部事情によるものであり、建治元年(1275年)に後深草上皇(持明院統)側の巻き返しによって皇子の煕仁親王(後の伏見天皇)が立太子に立てられ、惟康への親王宣下から17日後に伏見天皇が践祚している。親王宣下は譲位直前に行われた亀山上皇(大覚寺統)側による宗尊親王系の取り込み工作の一環としている[注釈 5][6]。しかし、後深草上皇は正応2年4月に伏見天皇の皇子・胤仁親王(後の後伏見天皇)の立太子を強行した。そして、自己の皇統の安定のために幕府との関係の強化を意図して[注釈 6]自己の皇統(王家)の成員への将軍職の交代を求めたのであり[10]、惟康の臣籍降下、皇籍復帰(親王宣下)、将軍解任のいずれもが大覚寺統と持明院統による両統迭立の成立と密接に関わっていたと言えるとしている。また、この時期には貞時が得宗への積極的な服従を条件として足利貞氏を源氏嫡流として公認しており、足利氏も他の源氏一門との格差を明示するためにこれを受け入れ得宗への協力姿勢を示したが、御家人の足利氏が源氏将軍を差し置いて源氏嫡流となる矛盾を抱える事になるために惟康を親王とする必要性があったという事情も影響しているともしている。ただし鎌倉時代の足利氏が「源氏の嫡流」だったとする同時代の史料は確認できず、この説が記されているのは戦国時代成立の『今川記』『今川家譜』であり、源実朝没後の鎌倉時代には武士たちは「源氏の嫡流」は滅亡したからもういないと考えていたとする見解もある[11]。
26歳となった正応2年9月14日(1289年9月29日)には将軍職を解任され[12]京に送還された。『とはずがたり』によれば、鎌倉追放の際、まだ惟康親王が輿に乗らないうちから将軍御所は身分の低い武士たちに土足で破壊され、女房たちは泣いて右往左往するばかりであった。悪天候の中を筵で包んだ粗末な「網代の御輿にさかさまに」乗せられた惟康親王は泣いていたという。その様子をつぶさに見ていた後深草院二条は、惟康親王が父の宗尊親王のように和歌を残すこともなかったことを悔やんでいる。人々は「将軍都へ流され給う」と評したという(『増鏡』第11「さしぐし」)。同年10月には惟康親王に代わって、後深草上皇の皇子久明親王が将軍となり鎌倉入りしている。惟康親王の将軍解任と京送還の理由やくわしい経緯は不明である。森幸夫は、泰盛を霜月騒動で滅ぼした頼綱が、泰盛の弘安徳政と連動して京で朝廷内改革・徳政を行うなど親密だった大覚寺統の亀山上皇を危険視したことが原因で、弘安10年(1287年)の持明院統の伏見天皇即位による後深草院政の成立、正応2年(1289年)の胤仁親王立太子、そして妹の掄子女王と瑞子女王が後宇多天皇の後宮に入っていた惟康親王の将軍更迭と後深草上皇の皇子である久明親王の将軍就任は、全て鎌倉で恐怖政治を布く頼綱の意向で行われたとしている[13]。
帰洛後の同年12月6日に出家するが、その後の動向については晩年に至るまでほとんど不明である。
永仁3年(1295年)には惟康親王の娘の中御所が久明親王の正室に迎えられている。これで義理とはいえ惟康と久明は父子ということになり、宗尊親王の系統が存続されることになった(結果的に鎌倉幕府最後の将軍となる守邦親王は惟康の外孫ということになる)[10]。
※日付=旧暦
惟康親王は源義朝の女系子孫にあたる(頼朝同母妹の坊門姫は上記系譜にある一条能保室で、九条良経室と西園寺公経室の母)。正元2年2月5日(1260年3月18日)、第5代執権・北条時頼は京より近衛宰子を猶子に迎え、将軍・宗尊親王の御息所として備えた[注釈 8]が、宰子が宗尊親王に嫁げば、その間に生まれる子も義朝の血筋を引くことになるため、時頼はこのことを宮将軍の正統性を下支えする要素として重視していた可能性がある[15]。
偏諱を与えた人物はいない。鎌倉時代において元服時に皇族将軍から一字拝領するのは北条氏の得宗家と赤橋家に限定されており、惟康親王の在任時においては北条貞時や北条久時が該当していたが両者と共に惟康親王より偏諱を受けなかった。貞時は平貞盛から一字を取ったという説が提唱されている(貞時の項を参照)。久時は久明親王から一字拝領受けたとされるが、惟康親王在任時から官位を受けるなど既に元服していた可能性もある。北条師時も両者と同年代に元服しているが、師時の家系は血縁上は貞時の従兄弟という得宗家に最も近い家系ながら得宗家や赤橋家と同等に扱われていたか不明である。経緯は不明ながら結果として20年以上将軍として在籍しながら偏諱を与えた人物がいない異例の将軍となった。
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