岩田専太郎
1901-1974, 画家、美術考証家 ウィキペディアから
1901-1974, 画家、美術考証家 ウィキペディアから
岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年6月8日 - 1974年2月19日)は、日本の画家、美術考証家。連載小説の挿絵を多く手がけ、数多くの雑誌・書籍の表紙で「専太郎張り」と呼ばれる画風の美人画を発表した。昭和の挿絵の第一人者として知られる[1]。妹は女優の湊明子[2]。
1901年(明治34年)6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれる[1]。生家は印刷業で、版木の名人と言われた父方のおじや絵双紙屋のおばがいるという環境だった[3]。幼い頃から絵が好きで画才を示し、妹の湊明子の回想では、彼女が尋常小学校に入学したときに講堂に兄の絵が飾られていたという[3]。
旧制尋常小学校卒業後、菊池契月、伊東深水に師事する[4]。この間、家族は父の仕事の都合で専太郎を残して京都に転居していた[3]。
1919年(大正8年)、十代後半から『講談雑誌』(博文館)で挿絵を発表しはじめる[1]。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災し、大阪に転居。中山太陽堂の経営する広告出版社プラトン社の専属画家となる[4]。同年創刊の『女性』(小山内薫編集)、翌年創刊の『苦楽』(直木三十五、川口松太郎ら編集)[5]で、永井荷風らの連載小説の挿絵を描く[4]。岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」。
1926年(大正15年)には東京に戻り、同市滝野川区田端476番地(現在の北区田端)に転居する。この界隈は「田端文士村」と呼ばれた町で、すぐ後には隣に川口松太郎が引っ越してきている。同年『大阪毎日新聞』に吉川英治が連載した『鳴門秘帖』に挿絵を描いて評判を呼び、「モダン浮世絵」と呼ばれた[6]。
1937年(昭和12年)、映画監督山中貞雄の遺作となった四代目河原崎長十郎主演の映画『人情紙風船』(P.C.L.映画作品)の美術考証を手がけた縁で、1939年(昭和14年)、山中の遺した原案をもとに梶原金八が脚本を書き、河原崎が主演し、山中の助監督だった萩原遼が監督した映画『その前夜』(東宝映画京都撮影所作品)の美術考証を手がける[7]。1945年(昭和20年)に陸軍報道部の命により日本画『神風特攻隊基地出発』を製作した。戦争末期には、妹の知人の故郷がある岩手県に妹と疎開し、食糧に窮した際には、頼って疎開してきた舞踊家の花柳徳兵衛と一座を組んで村々を慰問し、花柳の踊りを岩田が解説する(他に妹が衣装係)という出し物で訪問先から食糧を得た[8]。終戦直後に妹と帰京すると、長谷川一夫宅に身を寄せた[8]。
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