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上古中国神話上の帝王 ウィキペディアから
少昊(しょうこう)は、中国古代の五帝の一人。姓は己。氏は金天氏(鳳鳥氏、青陽氏、窮桑氏[1]、雲陽氏[2] とも称される)。名は摯(し。鷙・質とも作る)、または玄囂。号は「昊」(「皞」・「皓」・「顥」とも作る)、「少昊」(少昊とは太昊の徳行を継承したことによる命名)。
黄帝の子(『路史』では孫とされる[3])、母は嫘祖。西海のほとりにあったと伝わる窮桑(きゅうそう。現在の山東省曲阜市)で生まれる[4]。『史記』五帝本紀には、蟜極の父・帝嚳の祖父にあたると記されている。五行の上では金徳・西方・白色を示すとされ、金天氏・白帝という称はそれに由来する。
東海の青陽に国をたて、のちに都を曲阜に置いたとされる。『春秋左氏伝』昭公十七年の項には、暦を作成し、官名を玄鳥氏、伯趙氏、青鳥氏、丹鳥氏など、鳥類の名で呼んだことが記載されている。
『神異経』では、四凶のひとつである窮奇(きゅうき)は少昊の子孫であるとしている[5]。
『三国史記』金庾信列伝によれば、新羅の武将金庾信は金官加羅国の王家の子孫であり、その始祖・首露王は少昊の子孫にあたる[6]。
窮桑は高さ1万丈にもおよぶ桑の大木で、赤い葉をもち、1万年に一度長寿の効果のある果実をつけるとされる[4]。江水のほとりにたっていたと伝説には記されている。
仙女 皇娥の仕事は天宮で暮らす人々が使う織物を織る事であったが、あるとき仕事を休み天の川をいかだで下り、神木窮桑の木の下にたどり着き、そこで後の黄帝と出会い、少昊を生んだとされる[7]。
雲陽に葬られたという記述から、山東省曲阜市には少昊の陵墓であると考えられる丘陵があり「少昊陵」と称されている。清の時代の乾隆3年(1738年)に位置を移し現在のかたちに整備された[8]。中国ピラミッドと呼ばれる形状の陵墓のひとつである。
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