Loading AI tools
日本の京都府加佐郡にあった町 ウィキペディアから
大江町(おおえちょう)は、かつて京都府の加佐郡に属していた町である。2006年(平成18年)1月1日、天田郡三和町、夜久野町とともに福知山市に編入された。
北は舞鶴市と接し、東は綾部市、西は福知山市と接している。もとは丹後国加佐郡・丹後田辺藩・舞鶴県に属し、同じくそれらに属していた舞鶴市との結びつきが強かったが、宮福線の開通などによって、現代では福知山市とのつながりが強くなっていた。
河守盆地を由良川が流れ、町のシンボルとして鬼伝説もある大江山がそびえる。
平安時代のこの地には郷として川守郷があった[1]。『和名類聚抄』(『和名抄』)では丹後国加佐郡十郷の一つとされる[1]。鎌倉時代以降には荘園として河守荘があった[1]。
天正8年(1580年)には河守町が細川藤孝・細川忠興領、慶長6年(1601年)には宮津藩領となった[1]。
幕末の「丹後国村々版籍取調帳」によると、河守町の人口は男622人、女604人だった[1]。丹波国と奥丹後を結ぶ宮津街道にある宿場町であるとともに、近郷から原料を集めて蝋燭・桐油・生糸を製造する地でもあった[1]。物資の輸送には由良川も用いられた[1]。
廃藩置県後の1871年(明治4年)には宮津県に所属、、その後豊岡県に所属し、1876年(明治9年)に京都府の所属で落ち着いた[1]。
1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行により、河守町・金屋村・関村・上野村・波美村の区域をもって河守下村(こうもりしもむら)が発足した[1]。河守・金屋・関・上野・波美の5大字を編成[1]。
1890年(明治23年)12月10日、河守下村が町制施行・改称して河守町(こうもりちょう)が発足した[1]。特産品である蝋燭を取引する際に、古くから知られた河守町の名が有利だったことが理由である[1]。河守・金屋・関・上野・波美の5大字を編成[1]。1890年(明治23年)の人口は2,269人だった[1]。
1950年(昭和25年)の人口は2,360人だった[1]。1951年(昭和26年)4月1日、河守町、河守上村・河東村・河西村・有路上村・有路下村を編入のうえ改称して大江町となった。
2006年(平成18年)1月1日、大江町が福知山市に編入された。同日大江町廃止。
出典は『大江町発足40周年記念誌』など[2]
河守鉱山は主に銅とクロムを産出していた鉱山である。1917年(大正6年)に銅の採掘が開始され、1933年(昭和8年)には日本鉱業が本格的な操業を開始した。朝鮮戦争中の1951年(昭和26年)頃に飛躍的に成長し、1960年(昭和35年)頃に採掘のピークを迎えた。ピーク時には鉱山従業員220名、鉱山人口1000名を越える京都府最大の鉱山であり、従業員の子どもが通う大江町立物成小学校もあった。河守鉱山は1969年(昭和44年)に休山、1973年(昭和48年)に閉山し、鉱山跡地には公園の酒呑童子の里が作られた。劇場や集会施設として利用された河守会館の建物は現存している。
北丹鉄道廃止後の1988年(昭和63年)7月16日に開業し、北丹鉄道の経路のやや西寄りを直線的に結んでいる。福知山市に合併後の2015年(平成27年)4月1日、第三セクターの北近畿タンゴ鉄道 (KTR) からWILLER TRAINSが経営する京都丹後鉄道に対して列車の運行や乗車券等の販売等の事業が譲渡された。宮福線はWILLER TRAINSが第二種鉄道事業者として鉄道運行事業を行っており、北近畿タンゴ鉄道は鉄道施設を保有する第三種鉄道事業者となっている。
かつて福知山駅と大江町中心部の河守駅を結ぶ鉄道路線として北丹鉄道があった。1971年(昭和46年)3月2日に運行が休止され、1974年(昭和49年)2月28日に正式に廃止された。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.