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日本の芸人・俳優(1910−2002) ウィキペディアから
坊屋 三郎(ぼうや さぶろう、本名:柴田 俊英、1910年〈明治43年〉3月28日 - 2002年〈平成14年〉5月25日)は、日本の芸人、俳優。北海道夕張市出身。
出生時の氏名は石川博、生後数ヶ月で実相寺へ養子に出され、柴田俊英と改名。私立北海中学校に入学し、弓道部に所属した。日本大学専門部宗教科に進学するも、専門部芸術学科(現在の日本大学藝術学部の前身)に転科して声楽を学ぶ。
吉本興業(東京吉本)に入り、1937年に弟の芝利英・川田義雄(第二期は山茶花究)・益田喜頓(北海中学の同級生)とボーイズ演芸のあきれたぼういずを結成。1939年、新興キネマ演芸部に高額報酬を条件に引き抜かれ、吉本子飼いの芸人であった川田を除く3人で移籍した[1]。同年東宝の「ロッパの大久保彦左衛門」で銀幕デビュー。あきれたぼういずの一員として戦前は一世を風靡する人気を得た。
戦後にグループを再結成するが1951年に解散し、以降は舞台・映画で活躍。日本映画黄金時代とされる1950年代にプログラムピクチャーとして多作された喜劇映画を中心に多数出演した。
1954年、ディズニーアニメーション『ダンボ』が初めて日本語吹き替え版を製作することとなり、声優(ティモシー役)を務めた[2]。
1974年には松下電器(現在:パナソニック)「クイントリックス」のテレビCMでの外国人との掛け合いセリフ「クィントリックス!! 英語でやってごらんよ。あんた外人だろ、発音悪いね」が流行語になった。これがきっかけとなって、松下電器から家電製品一式がプレゼントされた。1980年代以降は、大林宣彦映画の常連としても知られた。後にボーイズ・バラエティ協会会長を務めた。晩年は長寿を逆手に取って「まだ生きてます。」という挨拶をツカミにしていた。
2002年5月24日に自宅近くのバス停で倒れ、救急車で東京世田谷区の病院に運ばれたが、5月25日に心不全のため死去。享年92。戒名は大演俊彦居士(だいえんしゅんげんこじ)[3]。
坊屋の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
「あきれたぼういず」名義を除く。全作品シングルレコードで発売。
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