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團 勝磨(だん かつま、1904年10月16日 - 1996年5月18日)は、日本の発生生物学者。東京都立大学名誉教授。理学博士。
東京府(現・東京都)生まれ。男爵團琢磨の次男[1]。團伊能の弟[1]。長姉・めいは三井鉱山の社長を務めた牧田環に、三姉・スミは日本石油(現・ENEOS)の社長を務めた小倉房蔵に嫁いだ[2]。父からは跡継ぎに望まれていたが、親の七光りと言われることを嫌い、旧制中学の時に読んだ丘浅次郎『進化論講話』に触発されて生物学の道に進む。
旧制青山学院中学部(現・青山学院中等部・高等部)から旧制第一高等学校入試に失敗、1年浪人後、旧制水戸高等学校理甲に入学。1929年、東京帝国大学理学部動物学科卒業後、発生学の権威ハイルブランを頼ってペンシルベニア大学大学院に留学。ウニの細胞を生かしたまま分裂させる実験法を確立し、細胞核分裂の生化学的研究への道を拓いた。
東京帝国大学副手、旧制武蔵高等学校講師、東京帝国大学講師を経て、東京都立大学教授、のち総長、日本動物学会会長。文化功労者。1976年叙勲二等授瑞宝章。1980年東レ科学技術賞受賞。1989年日本学士院会員。1996年叙正四位、授旭日重光章。
アメリカ合衆国出身の妻團ジーン(Jean Clark Dan; 別名・團仁子, 1910-1978)との間に5人の子をもうけ[3]、娘團まりなも生物学者。甥は作曲家の團伊玖磨[1]。ジーンは勝磨より6歳下の科学者で[4]、大学院生のときにウッズホール海洋生物学研究所(MBL)の夏期講習に参加して勝磨と知り合い、三崎臨海実験所勤務の辞令により1934年に一旦帰国した勝磨が1936年に再渡米して結婚、翌年より日本で暮らした[3]。三崎研究所でウニの受精の研究を始め、世界で初めて精子の先体反応を発見して1954年に発表、その後、お茶の水女子大学で教鞭を取った[3]。その生涯については伝記『渚の唄 ― ある女流生物学者の生涯』(加藤恭子著、講談社、1980年)に詳しい。
團が帰国後に研究の場としていた東京帝国大学の三崎臨海実験所は、日本海軍によって接収されて特殊潜航艇の基地にされていた。そのため、終戦直後には進駐軍による破壊の危機に瀕していた。しかし、團が施設のドアに貼り紙した「ここは60年以上の歴史を持つ臨海実験所である。(中略)兵器や軍事施設なら破壊してもよいが、日本の学生のための文化施設は守ってほしい。(中略)そして私達が再びここでの研究に戻れる可能性を残してほしい」というメッセージが進駐軍の兵士を思いとどまらせ、実験所は破壊を免れた[4]。その書き置きには"The last one to go"(最後に去る者)とだけ署名されていたが、文中でウッズホール海洋生物学研究所に言及していたことから米海軍の軍人の手によって留学中に團が学んでいた同研究所に送られた[5]。このメッセージは後に『タイム』誌で、“Appeal to the Goths(ゴート族へのアピール)”と題されて取り上げられることとなった。
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