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1907年(明治40年)10月の鉄道国有法施行による大私鉄の国有化と、これに伴う組織改組で1908年(明治41年)に成立した鉄道院は、今後の車両製造について規格統一の必要に迫られた。そのため、様々な検討が実施され、鉄道作業局時代の設計を基本としつつ、買収各私鉄の設計の長所を導入する形で今後の車両設計を行うことが決定された。そして1910年(明治43年)、以後の輸送計画や建設計画の基準となる鉄道院基本形客車の設計が完成した。
この基本形客車には当初、台車として1909年(明治42年)に鉄道院新橋工場で設計された明治42年式4輪ボギー台車が採用された。これは鉄道作業局時代末期に新橋工場で設計された明治41年式4輪ボギー台車[1]の軸距を延長してより大型の車体に対応可能としたもの[2]である。
この明治42年式4輪ボギー台車は、鉄道国有化前から実績のあった設計を拡大発展させたものであったが、部材中に輸入品の占める割合が大きく、高価という問題があった。このため、これを1911年(明治44年)に改良した明治44年式4輪ボギー台車では車軸が国産の、より大きな荷重に耐える仕様のものへ変更された。さらに、1912年(明治45年/大正元年)に設計された明治45年式4輪ボギー台車では側梁の鋼材が国産品に切り替わって、その取り付け高さが50 mm引き上げられ、また釣り合い梁の強化が実施されるなど、車体側の仕様変化に合わせて順次改良を加えつつ、部材の国産化が強力に推進されていった。
また、これと平行して1912年(明治45年/大正元年)製造のホデ6110形より、明治43年式台車[3]として電車にもこの系統の台車の採用が開始された。従来は電車用台車は主電動機などの各種機器とセットで輸入品が採用されていたが、こちらも国産化の進展で国産標準設計台車への切り替えが企図されたものであった。もっとも、こちらは電車用としての主電動機装架の必要などから客車用とはやや異なる小改良[4]を加えられており、電車の増備に合わせて明治45年式台車などが順次製造された。
これらはその名称が物語るとおり、当初は設計年次で形式区分されていた。しかしながら、この方式では電車用と客車用の区分が曖昧であるなど管理上不便であったため、鉄道院の後身である鉄道省は1929年(昭和4年)に台車の形式称号の整理を実施した。
この結果、同系統の構造を備えるこれら最初期の制式台車群についても改称が実施されたが、それぞれ構造面で大きな相違があったにもかかわらず、全て、電車用・客車用の区分無く一律に制式2軸ボギー台車のトップとなるTR10の名称が与えられている。
鍛造の釣り合い梁と、側梁から吊り下げられた揺れ枕吊りを備える、典型的なイコライザー台車である。
釣り合い梁は、側梁からの荷重を弓形の巨大な梁で左右に置かれた2本の釣り合いばねと呼ばれるコイルばねを介して受け止め、その両端に設けられた軸箱に伝える役割を果たす部品である。
この機構は軸箱それぞれが個別に動揺し、釣り合い梁による均衡作用で車輪の浮き上がりを抑制できるという特徴があり[5]、劣悪な条件の軌道での使用に適する。このため、資金的・地形的な制約などから軌道条件がイギリスのように良好ではなかったアメリカやフランスなどで広く普及した。日本においては官営幌内鉄道の開業にあたり、アメリカのハーラン&ホーリングスウォース社より輸入した客車用台車で既に採用されていたことが知られ、その後は、軌道条件が悪かったにもかかわらず、汽船との対抗上、優等列車の高速運転を行う必要があった山陽鉄道を皮切りに、1880年代末には官設鉄道を含む本州各社に普及した。
この釣り合い梁は一般に型鍛造で製造され、初期の明治42年式と明治44年式ではやや細身の外観形状であった。だが、これは以後の客車の大型化・重量増大に伴う荷重の増大に対しては強度が十分ではなく、以後のグループでは太く丈夫な形状に変更されている。
側梁については、明治42年式と明治44年式については輸入品の溝形鋼を背中合わせに組み合わせて鋲接し、H形鋼と同様の断面としたものを加工の上で使用[6]したが、続く明治45年式では当初日本でようやく国産化が可能となった[7]山形鋼(アングル)を使用し、更に1914年(大正3年)製造分以降、八幡製鐵所製の球山形鋼(バルブアングル)が使用されるようになった。
山形鋼も球山形鋼も共に船舶用鋼材の流用で、溝形鋼の場合、2本背中合わせでI形断面とすると一方の下辺が釣り合い梁と干渉するため、必ず切削加工で大きく削り取らねばならず、製造工程上も強度的にも好ましくなかった点を解消する目的で採用されたものであった。特に球山形鋼は下辺部が丸くリブ状となっているため、上下辺が同型の山形鋼よりも強度を高くでき、しかも裏側には余計な突起がないためトランサムや端梁との接合も容易、と釣り合い梁式台車の側梁に使用するには最適の鋼材であった。このため、1914年(大正3年)以降製造の鉄道院→鉄道省制式釣り合い梁式台車ではごく一部の例外[8]を除くほぼ全てについて、この球山形鋼が側梁用部材として使用された。なお、山形鋼は釣り合い梁との干渉が無い点で評価されたが、強度が不十分とされたため、球山形鋼開発以前でもその採用例は少ない。ただし、釣り合い梁の本数が多く、削り取る箇所が多い3軸ボギー台車については各軸間の軸距が2軸ボギー台車と比較して短く、十分な強度が得られたため、球山形鋼が採用されるまでの間、この山形鋼が側梁に多用されている。
軸箱部分は板材を組み合わせて構成したものと、鋳鋼製としたもの[9]の2種が存在したことが確認されており、一般的には製造の容易な前者が多用された[10]。
本形式に属する台車はいずれも基礎ブレーキ装置を両抱き式[11]として設計されている。
なお、本形式の系列に属する台車は国鉄線においては特に戦後、装着車である鋼体化客車で高速運転時の乗り心地の悪さから不評を買い、鋼体化客車でも急行・特急など優等列車に充当される形式については台車をTR40やTR52などの戦後設計された新形台車へ交換するケースが続出した。
だが、戦前期には紀勢線から直通運転を行っていた阪和電気鉄道線において、同社のモタ300形・モヨ100形に牽引された31系客車(TR11装着)が最高120 km/hに達するとされる高速運転で戦前の日本における最速列車であった南紀直通列車黒潮号に常用され、また筑波鉄道から同社へ譲渡された木造客車を改造したクタ800形(TR14装着)も同社線で他の鋼製制御車に伍して高速運転に充当され、さらには同時期に京阪神地区の東海道本線上で電化前に運転されていた快速列車においても、31系客車を中心とするTR11装着客車が同区間を併走する超特急「燕」とデッドヒートを演じるほどの高速運転で問題なく運用されていたことが知られている。
森川克二(国鉄臨時車両設計事務所所員)は、TR11系台車について1958年の著述で「揺れまくらつりの短いこと、台車ワクの剛性が小さいことなどの原因で各部の摩耗が進むと蛇行動が激しくなる傾向がある」と記している[12]。
※流用品・他事業者からの中古品を使用する車両を含む。
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