吉川重吉
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吉川 重吉(きっかわ ちょうきち、1860年1月16日〈安政6年12月24日〉 - 1915年〈大正4年〉12月27日)は、旧・岩国藩主吉川家の一族。外務官僚、貴族院男爵議員。父は吉川経幹、兄は最後の岩国藩主吉川経健。爵位は男爵。妻は大洲藩最後の藩主加藤泰秋の娘・須賀子。子は男子が吉川元光と吉川重国。娘たちは原田熊雄、和田小六、獅子文六に嫁いでいる。
安政6年12月(1860年1月)、吉川経幹の三男として、岩国横山の仙鳥屋形で生まれる。文久3年(1863年)には名目的ではあるが、子のなかった毛利敬親の養子となる。
1871年(明治3年)に岩倉使節団に同行してアメリカへの留学を果たす。同行者は岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、佐々木高行、山田顕義、田中光顕、田中不二麿など当時の要人の他、旧・大名家・公家の子弟としては他に、岩倉具綱(具視の養子)、大久保彦之進、牧野伸顕、山県伊三郎等が参加。鍋島直大、前田利嗣、前田利同、黒田長知、鳥居忠文、大村純煕、毛利元敏等もいた。重吉の従者として、岩国藩士の子でのちにペルーの日本人移民事業の立役者となった田中貞吉(安政4年(1857年) - 1905年(明治38年))が同行した[1]。
1883年(明治16年)、留学先のハーバード大学を卒業。帰国後に井上馨の強い勧めもあり外務省に入省、公信局に配属される。1886年(明治19年)にはベルリン公使館二等書記官となり、西園寺公望に従ってドイツへ赴任。その後、外務省を退職し、ドイツ・ハイデルベルヒ大学へ留学するも、兄の吉川経健補佐のために中途で帰国。1891年(明治24年)11月21日に華族になり、男爵に叙任された、翌年には最後の大洲藩主加藤泰秋の娘、須賀子と結婚する。
1893年(明治26年)6月21日、貴族院議員に補欠選挙で当選し[2]、亡くなるまで在職した[3]。1910年(明治43年)に建築家のジェームズ・ガーディナーによって自宅を建築。1915年(大正4年)に南洋協会の設立に参加、副会頭となったが、同年末に死去した。享年56。
死後、その遺志によって岩国徴古館が建設されるに至った。墓所は谷中霊園にある。
松陰神社(世田谷区)に重吉が寄贈した石燈篭が残っている。また、谷中霊園の墓所にはアメリカ・ハーバード大学寄贈の石灯籠がある。
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