協商国のロシア内戦への介入
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協商国のロシア内戦への介入(きょうしょうこくのロシアないせんへのかいにゅう、ロシア語: Иностранная военная интервенция в России)では、1918年から1920年まで(日本のみ1922年まで)行われた協商国(第一次世界大戦における連合国)によるロシア内戦への一連の干渉戦争について述べる。 当初、連合国はシベリア鉄道やシベリアの諸都市を占領していたチェコスロバキア軍団がロシアの港で、軍需品や武器の供給を確保することを支援するために派兵を行っていた。この目的は次第にロシア白軍を支援するというものに変わっていった。しかし、1920年に白軍が崩壊すると、協商国は自軍を撤退させた。ただし、日本は1922年まで軍事干渉を続けた[19]。また、これらの干渉にはドイツなどの中央同盟国によるロシアの資源の利用を防ぐ目的や、1917年のロシア十月革命によってロシア領内で捕えられた連合国軍を支援する目的を含むものもあった[20]。
連合国軍による干渉戦争には、アルハンゲリスクに上陸した北ロシア出兵(英語版)や、ウラジオストクに上陸したシベリア出兵、イギリス軍主導により行われたバルト海戦線(英語版)や南コーカサス戦線(英語版)、フランス主導の南ウクライナ・クリミア遠征(英語版)が含まれる。
ロシアに干渉した連合軍は連合国間の目的の不一致や第一次世界大戦から続く戦争による疲労によって撤退することとなった。1920年9月のチェコスロバキア軍団の撤退完了に伴い、協商国のほとんどの国は同年までにロシアから軍を撤退させた。ただし、日本は1922年までシベリア出兵を続け、1925年まで北サハリンを占領した(サガレン州派遣軍)[21]。
欧米の歴史家はこれらの干渉戦争を第一次世界大戦に続く小規模な軍事作戦として描いている。一方、ソビエトやロシアの歴史家にはボルシェヴィキによる世界革命の抑圧やロシアを分割し衰退を目的とした連合国による試みであると解釈する者もいる[22]。