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伊地知家(いぢちけ[1])は、桓武平氏伊地知氏庶流にあたる武家・士族・華族だった日本の家。江戸時代中期頃に薩摩藩士伊地知家から分家して成立し、近代に陸軍中将伊地知幸介を出したことで、その軍功により華族の男爵家に列せられた家である[2]。
伊地知氏は桓武平氏秩父氏畠山重忠の後裔であり[3]、伊地知季随以降薩摩国や大隅国に土着して島津氏に仕えた一族である。同家は江戸時代中期の元禄の頃に分家して一家を成したことで成立[1]。以降明治維新まで薩摩藩士として続いた家である[4]。
明治期の当主伊地知幸介(安政元年11月6日生、大正6年1月23日没)は明治2年に陸軍に入隊し、ドイツ留学後、実践的射撃法を採用し、砲兵教育に尽した[1]。日清戦争に歩兵中佐として出征して戦功を挙げ、功四級に叙された。明治39年までに陸軍中将に昇進。日露戦争では満州軍第三軍参謀長旅団要塞司令官として軍功を挙げ、功2級に叙せられるとともに、翌年9月に特旨をもって華族の男爵位を与えられた[1][4]。その後は東京湾要塞司令官第11師団長などを務めた[4]。幸介の前妻雪子は大山彦八(陸軍大将・元帥大山巌公爵の兄)の長女、後妻キミは西郷従道侯爵の養女(高階経本次女)[1]。
大正6年1月23日に幸介が死去した後、同年2月28日に長男伊地知精(明治42年3月25日生、昭和63年1月12日没)が爵位と家督を継承した[1]。精の夫人繁子(大正3年5月14日生、昭和61年7月10日没)は毛利元秀子爵(徳山毛利子爵家)の長女[1]。昭和前期の伊地知男爵家の住居は、精が昭和製鋼所鞍山本社に勤務していた関係で満州国鞍山南にあった[4]。精の妹梅子は、香淳皇后(昭和天皇皇后)の上席女官だった[5]。
直右衛門 | |||||||||||||||||||||||||||||||
幸介 | |||||||||||||||||||||||||||||||
精 | 梅子[注 1] | 百合子[注 2] | 花子[注 3] | ||||||||||||||||||||||||||||
正直 | 幸子[注 4] | 妙子[注 5] | |||||||||||||||||||||||||||||
大輔 | 剛 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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