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一般に知られている武士としての伊丹氏は藤姓伊丹氏で、藤原利仁の後裔を称している。系図によれば利仁流加藤氏の流れである。
始祖は伊丹親元と云われるが、定かではない。鎌倉時代末期、南北朝時代から、各文書に名前が見られ始める。史料上の初見は、延慶2年(1309年)の伊丹三郎左衛門尉親盛で、摂津守護代の下で働いていたとされる。また、親盛は六波羅探題の命で兵庫関の検分を行っている。『太平記』には親盛の父である伊丹四郎左衛門尉親資の名前が見える。「八坂神社文書」内の貞治3年(1363年)付の文書や『祇園社記』には伊丹勘解由左衛門尉の名前が見える。室町時代には、細川氏や畠山氏の被官として、また伊丹城城主として存在が確認される。
戦国時代に入ると、細川・氏の配下の武将、さらには今川氏・武田氏・徳川氏の配下を渡り歩いた武将など、近畿や中部での活躍が見られる。
本家である伊丹氏はとくに有名で、南北朝時代から伊丹城を拠点として現在の伊丹市を中心とした地域を統治し、室町時代からは摂津の有力国人として天皇家に仕え、応仁の乱では東軍に味方した。
ところが、戦国時代、細川高国に味方した伊丹元扶、伊丹国扶の父子が戦死するにいたり、伊丹親興は畠山氏との戦い(教興寺の戦いなど)に参戦した。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて入京すると、親興は信長に恭順の意を示し、和田惟政や池田勝正らと共に摂津三守護に任じられた。このことから、伊丹氏が摂津において有力な国人であったことがわかる。
しかし、元亀2年(1571年)以降、信長と義昭が対立するようになり、親興は義昭に味方して反信長に加わったため、天正2年(1574年)11月15日には、信長の命を受けた荒木村重によって伊丹城を攻め落とされ、親興は自害した。
親興の子・伊丹忠親は、本能寺の変後に羽柴秀吉に馬廻として仕え、秀吉の死後は黒田長政に属し、関ヶ原の戦いで戦死した。忠親には子・正親がおり、その子・氏親や忠親の親族の加藤重徳の長男加藤吉成と次男黒田一成は長政家臣に、永親は豊臣秀頼の家臣となった後に徳川秀忠の家臣となって旗本に、娘・於菊の前は豊臣秀次の側室となったが、後の事件で斬首された
元扶のもう一人の子、伊丹康直の系統は江戸時代に徳美藩1万2,000石の大名となったが、元禄11年(1698年)に伊丹勝守が自殺したことによって改易された。
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