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井伊 直中(いい なおなか)は、江戸時代中期から後期の大名。近江国彦根藩の第14代藩主[2]。井伊直弼の実父である。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和3年6月11日(1766年7月17日) |
死没 | 天保2年5月25日(1831年7月4日) |
改名 | 庭五郎(幼名)、直中 |
戒名 | 観徳院天寧広輝 |
墓所 | 滋賀県彦根市の清涼寺 |
官位 | 侍従兼玄蕃頭、掃部頭、贈従三位[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 近江彦根藩主 |
氏族 | 井伊氏 |
父母 | 父:井伊直幸、母:大武氏の娘・量寿院 |
兄弟 |
直尚、直寧、俊姫、直富、直中、直広、真田幸専、土井利義、直明、直容、直致、扁勝、暉玄、摂有、松平康哉正室、立花鑑門正室、雍姫、磐、松平忠馮正室、謙ら 養兄弟:美子、井伊直存娘、井伊直朗娘 |
妻 |
正室:南部利正の娘・親姫 側室:君田富(お富の方)、津田信備の養女、関口氏、八千女、山田清伯の娘 |
子 |
直清、穠姫、某、直亮、鋭三郎、亀五郎、知、中顕、充、秩、中川久教、内藤政成、芳、松平勝権、新野親良、直元、横地義之、内藤政優、直弼、内藤政義ら 養子:多喜 |
明和3年(1766年)6月11日、13代藩主・井伊直幸の六男として江戸で生まれる。幼名は庭五郎といった。天明7年(1787年)7月に兄で世子だった直富が早世したため、同年9月25日に世子となる。寛政元年(1789年)に直幸が死去したため、家督を継いで彦根藩主となり、同年4月22日に掃部頭に任官する。
直中は寛政の改革に倣って積極的な藩政改革を行ない、財政再建のための倹約令や町会所設置による防火制度の整備、殖産興業政策を行った。寛政11年(1799年)には藩校として稽古館を創設し、算術や天文学、砲術など多岐に指導し、人材育成に努めた(後に弘道館と改名)。ほかにも治水工事などの干拓事業を行ない、藩祖の井伊直政らを祀るために井伊神社を創設し、さらに佐和山に石田群霊碑を建立して石田三成の慰霊を行った。
文化9年(1812年)2月3日、家督を子の井伊直亮に譲って隠居し、左兵衛督と称す。天保2年(1831年)5月25日に彦根で死去した。享年66。
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