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日本の大阪府八尾市の広域地名 ウィキペディアから
久宝寺 きゅうほうじ | |
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国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 大阪府 |
自治体 | 八尾市 |
旧自治体 | 久宝寺村 |
面積 |
1.75km² |
世帯数 |
5,343世帯 |
総人口 |
11,955人 (住民基本台帳人口及び外国人登録人口、2011年12月31日現在) |
人口密度 |
6,831.43人/km² |
八尾市役所久宝寺出張所 | |
北緯34度37分49.9秒 東経135度35分13.8秒 | |
所在地 |
〒581-0071 大阪府八尾市北久宝寺2丁目1番1号 |
八尾市の西側に位置し、大まかには近鉄大阪線とJR大和路線、府道大阪中央環状線と長瀬川に囲まれた地域である。新住所表記では、久宝寺、神武町の一部、東久宝寺の一部、北久宝寺、西久宝寺、南久宝寺、渋川町の一部に該当する。 ここでは、八尾市に合併される前の旧久宝寺村の地域について記述する。
古代・飛鳥時代に聖徳太子がこの地に「久宝寺」を創建したことが名称の由来となっている。しかしどこに建てられ、いつごろ廃れたかははっきりしない。 律令制制定以降は、河内国渋川郡に属する。
中世・鎌倉時代になると、慈願寺が創建される。室町時代には安井氏の領地となる。戦国時代に本願寺第八世蓮如がこの地で布教活動を始め、西証寺(のちの顕証寺)を創建し、周囲に環濠をめぐらせて環濠集落・寺内町が形成された。
石山合戦時には安井氏は織田信長方に付いたため寺内町の一向宗派と対立し、当時の支配者であった安井主計兄弟は攻め殺されたが、石山本願寺が攻め落とされたため一向宗も弱体化してしまった。その後安井氏は豊臣氏・徳川氏に与して領地を安堵されている。
江戸時代初期に、浄土真宗の東西分裂が表面化するのと前後して、久宝寺でも安井氏と一部住民が対立し、森本行誓ら17人衆が慈願寺と共に久宝寺川東の荒地へ移住した。移住先は「八尾寺内町」となり、現在の八尾市の中心となっている。
久宝寺寺内町を中心とする地域であり、古い民家や商家が多い。一部は比較的規模の大きな工業地や緑地公園となっている。
地域の東側から北へ長瀬川が流れる。かつての久宝寺川(大和川の本流)であり、大和川付け替え後に井路川水路となった長瀬川の沿岸部は顕証寺新田および三津村新田だった地域である。
道路
東西を八尾街道(府道大阪港八尾線)、北へは北八尾街道(府道大阪八尾線)、南へは木ノ本、藤井寺へ至る街道(旧大阪中央環状線)が通っている。
鉄道
域内には鉄道は通っていないが、少し離れて、北側を東西に近鉄大阪線が、南側をJR関西本線(大和路線)が通っている。最寄り駅はそれぞれ久宝寺口駅、久宝寺駅。
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