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中和郡(チュンファぐん)は朝鮮民主主義人民共和国の平壌近郊にある郡。かつては平壌直轄市に属していたが、2010年に黄海北道に編入されたと観測されている。面積は232.4km2[2]、人口は推定13万4000人(1990年)[3]
位置 | |
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北緯38度51分33秒 東経125度49分44秒 | |
地図 | |
各種表記 | |
チョソングル: | 중화군 |
漢字: | 中和郡 |
日本語読み仮名: | ちゅうわぐん |
片仮名転写: | チュンファ=グン |
ローマ字転写 (MR): | Chunghwa-gun |
統計(2008年) | |
面積: | 232.4 km2 |
総人口: | 77,367 [1] 人 |
人口密度: | 332.9 人/km2 |
行政 | |
国: | 朝鮮民主主義人民共和国 |
上位自治体: | 黄海北道 |
下位行政区画: | 1邑16里 |
平壌直轄市に属していた時期にはその南部に位置していた。東西26km、南北10kmと、東西に細長い郡域を持つ[4]。
郡域の大部分は平壌準平原に属し、地勢は平坦である。郡東部には馬場山(마장산、340m)、無等山(무등산、240m)、青龍山(청룡산、195m)などがある。郡内には中央部に昆陽江(コニャンガン / 곤양강)、北東部に戊辰川(ムジンチョン / 무진천)が流れている。重要な農業施設としては、明月(ミョンウォル)貯水池と馬場(マジャン)貯水池がある。
高句麗時代には「加火押」の名で呼ばれた。統一新羅では漢州に属し、憲徳王の時代に唐嶽県となった。
高麗では唐嶽県を唐嶽村と改めて西京に所属させたが、1136年の妙清の乱ののちに行政機構を再編し、「西京六県」のひとつとして中和県を設置した。1322年、中和郡に昇格した。
朝鮮王朝時代の1413年、中和郡は平安道に所属する。1592年、文禄の役における軍民の抗戦が功績とされ、都護府に昇格した。
1895年、行政区画の再編(二十三府制)により、平壌府所属の中和郡となった。翌1896年に十三道制が導入されると、中和郡は平安南道に属した。 日本による韓国併合後の1914年に行政区画の大規模な統廃合が行われ、東に隣接する祥原郡が編入されるとともに、面も統廃合が進められた。1914年の中和郡は、以下の15ヶ面(左列が旧中和郡域、右列が旧祥原郡域)で構成された[4]。
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1930年に面の再編が行われ、培和面は看東面に、上道面は楓洞面に、下道面は祥原面に編入され、古生陽面は中和面・東頭面に分割編入され、都合11ヶ面となった。
1947年、大同郡の青龍・栗里・龍淵・南串面を編入、また青龍面と楓洞面を江東郡に移管し、13面となった。
1952年12月、北朝鮮の地方行政区画再編により、東部の祥原・水山・天谷・看東面を祥原郡に、西部の唐井・新興・海鴨・楊井・南串面を江南郡として分離。残る中和・東頭・栗里・龍淵面を中心に中和郡(1邑20里)が再編成された。中和邑は旧中和面に置かれた。
2010年頃より、平壌直轄市が縮小されて中和郡など南部・東部郊外の郡や区域が黄海北道に移管されたとの報道が行われるようになった。2011年2月15日に大韓民国統一部は、祥原郡・江南郡・中和郡・勝湖区域が黄海北道に移管されたと発表した。ただし、この発表内容については疑義も示されており、日本のアジア経済研究所図書館では、中和郡の移管について「定かではない」としている[5]。
この節の出典[4]
2002年現在、中和郡は1邑16里からなる[4]。
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近郊農業地帯であり、農業が主産業である。郡西部ではコメが生産され、郡東部ではトウモロコシ・マメなどの雑穀類が生産されている。このほかに、タバコ・綿花・果実の栽培も活発である。
平壌の南に位置し、鉄道の平釜線をはじめとした重要な交通路が通過している。
このほか、平壌と開城を結ぶ一級道路が郡内を貫いている。中和-江南、中和-力浦、中和-祥原には二級道路が開設されている[4]。
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