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日本の児童文学者、詩人 (1905-1997) ウィキペディアから
与田 凖一(よだ じゅんいち、1905年6月25日(戸籍上は8月2日生まれ)[1] - 1997年2月3日)は、日本の児童文学者・詩人。昭和期の日本の児童文学界において指導的役割を担った。作詞家を担当、巽聖歌らと親交を結びその後も本格的な執筆活動を開始し、1929年に初の童謡集「旗・蜂・雲」を出版した。作詞家橋本淳の父。ドイツ文学翻訳の与田静(1942- )は長女。與田凖一[1]、与田準一[2]の表記もある。日本ペンクラブ会員。
1905年、福岡県山門郡瀬高町(現在のみやま市瀬高町)に浅山与太郎、スエの次男として生まれた[1]。翌年、親戚の与田家の養子となり、以降は与田姓を名乗った。養父母を相次いで亡くしたため、実家である浅山家で育つ。
1924年に筑後市で小学校代用教員に採用され、翌年から下妻尋常小学校訓導となる[1]。ドルトン・プランの影響を受け、児童の作品とともに自作を『赤い鳥』などに投稿する[1]。1926年教職を辞し、1928年北原白秋を頼って上京[1]。『白秋全集』の校正を手伝うも体調を崩して一時帰郷する[1]。翌年再び上京し、『乳樹』を創刊しつつ、赤い鳥社に入社する[1]。1933年、同社を退社[1]。1940年日本文化協会から第1回児童文化賞を受賞する[1]。
終戦後は周郷博の斡旋により、1950年から1960年まで日本女子大学で講師として児童文学を講じた[1]。門下には、まど・みちおをはじめ、岩崎京子、生源寺美子、あまんきみこ、神沢利子らがいる[1]。1962年より日本児童文学者協会の第6代会長を務めた[1]。1967年『与田凖一全集』でサンケイ児童出版文化賞[1]、1973年『野ゆき山ゆき』で野間児童文芸賞を受賞した[1]。1982年、みやま市瀬高町の清水寺に与田の詩碑が建立された[1]。1990年モービル児童文化賞を受賞[1]。墓所は多磨霊園。
2009年10月、みやま市に与田の功績をまとめた記念館が作られた。毎年10月には「与田凖一児童文学祭 むっきっきまつり」が催されている[3]。
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