上ケ原
西宮市の中部(甲東地域)にある地区 ウィキペディアから
西宮市の中部(甲東地域)にある地区 ウィキペディアから
東側に上甲東園、西側に五月ケ丘と新甲陽町、南側に一ケ谷町と高座町、北側に仁川百合野町と接する。
現行行政地名は以下のとおりである。いずれも住居表示を実施済みである[2]。なお、町名の後ろに「△丁目」(△は任意の数字)が付かず、「△番」(街区符号)と「△号(△-△号)」(住居番号)とで表示される。
「上ケ原」の名称は、江戸時代に入る前の頃は、当時の上ケ原台地に村落や耕地がなく、台地を下った麓にある平野部の村々から見て、台地の上の平原であることから名付けられたと考えられる[15]。初めは周辺村落の採草地として利用されるにすぎなかったが、江戸時代前期の承応元年(1652年)ころ、大坂(摂津国)西成郡佃村の孫右衛門と九左衛門[注釈 2]らによって新田開発が始められ、上ケ原の地は、田畑が開墾されるにつれてその維持のために必要な、上ケ原台地周辺の村々から集められた定住者のいる上ケ原新田(村)へと変わっていった[15]。
当時、新田に必要な水を仁川(にがわ)上流から引くにあたっては、尼崎藩が藩費で池を掘り、より上流で取水していた社家郷(しゃけごう)の村々(広田村・中村・越水村・鷲林寺新田)の水の補填を図ってその分の取水量を上ケ原新田に廻したほか、上ケ原新田と旧大市庄(おいちのしょう)5か村[注釈 3](上大市村、下大市村、段上村、門戸村、神呪村)との間で分水に関する協定が結ばれた[15][17]。用水路を開削した後も、破損修復に新たな水路を岩山にトンネルを掘りぬいて通すなどして心血を注いで整備され、享和3年(1803年)にようやく完成した上ケ原用水路は、今日では西宮市指定文化財(史跡)に指定されている(1981年3月25日指定)[18]。
主な公示地価は、以下のとおりである(各地点は地番でなく住居表示で記載)。
市立小・中学校の通学区域は、以下のとおりである[24][25]。
町丁 | 街区 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
上ケ原一番町 | 全域 | 西宮市立上ケ原小学校 | 西宮市立甲陵中学校 |
上ケ原二番町 | |||
上ケ原三番町 | |||
上ケ原四番町 | 1番 | 西宮市立上ケ原中学校 | |
2番 | |||
3番 | |||
4番 | 西宮市立甲陵中学校 | ||
上ケ原五番町 | 全域 | 西宮市立上ケ原中学校 | |
上ケ原六番町 | 西宮市立上ケ原南小学校 | ||
上ケ原七番町 | |||
上ケ原八番町 | |||
上ケ原九番町 | |||
上ケ原十番町 | |||
上ケ原山手町 | |||
上ケ原山田町 |
阪急バスによって路線バスが運行されており、「関西学院前」(上甲東園3丁目寄りに位置)の外、町内に「上ヶ原」、「上ヶ原六番町」、「上ヶ原南口」(以上、10・11・12番系統)や「上ヶ原二番町」、「上ヶ原四番町」(以上、16・17・19・24・26番系統)の停留所がある。
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