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ミャンマーのラカイン州に居住する民族 ウィキペディアから
ロヒンギャ(英: Rohingya people)とは、ミャンマーのラカイン州(旧アラカン州)に住む人々である。英語や現地ミャンマーではロヒンジャ、隣国タイ王国ではロヒンヤと発音される[12][13]。ロヒンギャと呼ばれる人の大半はムスリムだが、少数ながらヒンドゥー教徒もいる。ミャンマー政府の公式見解では、ベンガル語の1方言を話すインド系住民はムスリムだろうとベンガリと呼ばれ、バングラデシュからの不法移民という位置づけである[14]。
ミャンマーではロヒンギャという集団の存在自体が否定されており、バングラデシュから流入した不法移民であるとの主張から、ベンガル人という意味のベンガリ(ビルマ語: ဘင်္ဂါလီ)と呼ばれている。
本項では、原則としてロヒンギャと表記し、ミャンマー側見解など、他の表記が必要な時は「バングラ人」「ベンガル人」「ベンガル系ムスリム」などカギカッコつきで表記する。
日本は、「バングラ系イスラム教徒のロヒンギャ」[15]と表記している。外務大臣記者会見などではロヒンギャの語は避け、「ラカイン州のムスリム」などの表現を使っている[16]。
また、国際赤十字では、「政治的・民族的背景および避難されている方々の多様性に配慮」という理由で「ロヒンギャ」という表現を使用しないとしている[17]。
ロヒンギャ(Rohingya)という言葉の起源については諸説ある。
歴史家のチョーミンティンは、もともとベンガル語やチッタゴンの方言で、ラカイン地域のことを「ロハン(Rohang)」または「ロアン(Roang)」と呼び、そこに住む人々を「ロアンヤ(Roangya)」または「ローインガ(Rooinga)」と呼ばれていたと主張している。ロハン(Rohang)またはロアン(Roang)の由来は、アラカン王国の首都・ムラウク・ユー(Mrauk-U)のかつての呼び名・Mrohaungだという説がある[18]。注意が必要なのは、このロアンヤ、ローインガというのは、ラカイン地域に住むムスリム、ヒンドゥー教徒、仏教徒の総称だったということである[19]。ミャンマー人がロヒンギャという言葉に嫌悪感を感じるのは、その言葉がラカイン全体を意味していることに負うところが大きい[20]。その後、ローインガという言葉は使われなくなり、ロアンヤ(時に「ルワンヤ(Rwangya)」だけが残って、ミャンマーの独立前後には、英植民地統治前からラカイン北部に住むムスリムだけを指す言葉に転化していった[19]。
ちなみにラカインの歴史の専門家・ジャックス・P・ライダーは、1799年にイギリス人の軍医・フランシス・ブキャナンが発表したビルマ語に関する報告書の中でローインガという言葉が初めて見られる[21]としている[22]。ただブキャナンは、ラカインには行ったことがなく、マンダレー近郊のコンバウン朝の首都・アマラプラにいた時に、ラカイン族の人々からラカイン族のベンガル名は「ローインガ」だと聞かされただけだった[23][24]。ヴィシュヌというヒンドゥー教の神を崇拝しているとあるので、ヒンドゥー教徒のことを指していた可能性もある[25]。
(1795年)10月9日。アラカン族の言語のサンプルを得るために、何人かのアラカン族を呼び寄せたところ、3人の男が連れてこられた。彼らは自分たちをロサン族(Rossawns)と呼び、2人はバモン族(Bamons)、もう1人はスードリー族(Soodrie)だと言った。バモン族はベンガル語でブラミン族(Bramin)と呼ばれる人々を指す。彼らの言語は明らかにベンガル語と同じだった。彼らは、アラカン族のベンガル語名はローインガ(Rooinga)だと言った。彼らは主にヴィシュヌ(Veeshnu)を崇拝しているが、アラカンの王はグエトム/ゴダマ(Guetom/Godama)またはブッダを崇拝し、王の僧侶は、ビルマ族の発音でポウンジー(Poungee)とかポウンジェ(Poungye)と呼ばれていた。これは偉大な徳を意味する一般的な僧侶の呼び名である。彼らは、アラカンの原住民は自分たちをラカイン(Rakain)と呼び、首都はロサン(Rossang)、王国全体のことはヤカプラ(Yakapula)と呼んでいると語った。しかし彼らは決してアラカンの本当の原住民ではないと思う。(本当の原住民は)ヒンドゥー教徒で、彼らはずっと昔からこの国に定住していた[25]。
ブキャナンは1829年に亡くなるまで、ベンガル地方とラカインの国境周辺の旅行について多くの記録を残したが、その後1度もローインガという言葉を使っておらず、同時代人の記録にも見られず、第一次英緬戦争を経て1824年にラカインにやって来たイギリス人の記録にもない[25]。
ロヒンギャの居住地域は、ミャンマー連邦共和国西部にあるヤカイン州(旧アラカン州、古い発音ではラカイン州と発音)のブティーダウン(Buthidaung)とマウンドーの両市と、バングラデシュ人民共和国東部にあるチッタゴン管区コックスバザール周辺のマユ国境一帯にある。バングラデシュへ難民化したり、ミャンマーへ再帰還したりしたため、現在では居住地域が両国に跨っている。
ロヒンギャの大半はスンナ派・ムスリムである。少数ながらヒンドゥー教徒もいる。
主に農業で生計を営むが、商人としての交易活動も盛んである。
しかし、ミャンマーでは「不法移民」と見なされているため、移動の自由は認められておらず、修学も、就職も厳しく制限されている[26]。そのため、農業や日雇い以外の仕事に就くことは困難である[27]。
ミャンマーにおけるロヒンギャの人口規模は80万人と推計[28] されるが、政府当局の統計の信憑性が低いと考えられるため正確な数値は不明である。
2017年以降のミャンマー国軍・警察・自警団などによる攻撃で、国外に逃れたロヒンギャは60万人を超えており、過半数がミャンマーを追われた計算になる。2017年8月28日時点でアントニオ・グテーレス国連事務総長は、8月25日以降の難民は50万で、さらに25万人が潜在的な追放の危機にあるとした[29]。
インド語派東部語群ベンガル・アッサム語に属するロヒンギャ語を使用、チッタゴン語に近いが、類縁とされるベンガル語との相互理解は難しい。ロヒンギャはミャンマーの公用語であるビルマ語(シナ・チベット語族)を使用しないことも統合に支障を生じる原因となっている。
正書法が確立しておらず、アラビア文字、ウルドゥー文字、ラテン文字、ビルマ文字等による表記が入り乱れている。1980年代には、モーラナ・ハニフィが、アラビア文字をもとに書法を作成し、これが、ハニフィ(Hanifi)又はロヒンギャ文字と呼ばれているものである。
ミャンマー近現代史の専門家・根本敬は、ロヒンギャのルーツを次の3つに分類している[30]。これらさまざまなルーツを持つ人々が婚姻などを通じて融合しあい、現在では弁別困難である[31]。
アラカン王国は1430年から1784年まで現在のラカイン州にあたる地域で栄えていた王朝である。仏教王朝だったが、インド人、アラブ人、ペルシャ人、ポルトガル人などさまざまな人々が訪れる海洋王国で(ポルトガル人宣教師マンリケは1630年に国王の傭兵を務める日本のキリシタン武士団がいたと記録を残している[32])、他の民族・宗教・文化に寛容だった。少数派のムスリムも多数派のラカイン族仏教徒と共存しており、初代から11代目までの王はムスリム名を併用しており、宮廷にはムスリムの大臣や宮廷詩人もいて、王朝が鋳造した貨幣にはイスラム教のカリマ(「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒である」という文言)が刻まれていた[33]。
1785年、アラカン王国はビルマ族のコンバウン朝により滅され、その後、40年ほどコンバウン朝による統治が続いた。その間、コンバウン朝の支配を嫌ったムスリムとラカイン族仏教徒がチッタゴンに難民として流出し[34]、その子孫は現在でもチッタゴン近辺に仏教徒として暮らしている(チッタゴン丘陵地帯#主要な先住民族集団(ジュマ))。
英植民地時代のラカインの人口推移[32]
年 | ラカイン全体 | うち仏教徒 | うちムスリム | うちアキャブ | うち仏教徒 | うちムスリム |
---|---|---|---|---|---|---|
1829 | 121,288 | |||||
1832 | 195,107 | 109,645 | ||||
1842 | 246,766 | 130,034 | ||||
1852 | 352,348 | 201,677 | ||||
1862 | 381,985 | 227,231 | ||||
1872 | 484,363(100%) | 364,023(75,2%) | 64,315(13.3%) | 276,671(57.1%) | 185,266(38.2%) | 58,263(12%) |
1881 | 588,690(100%) | 422,396(71.8%) | 106,308(18.1%) | 359,706(61.1%) | 230,046(39.1%) | 99,548(16.9%) |
1891 | 671,899(100%) | 472,684(70.4%) | 126,604(18.8%) | 416,305(62.0%) | 238,259(35.5%) | 119,157(17.7%) |
1901 | 762,102(100%) | 511,635(67.1%) | 162,754(21.4%) | 481,666(63.2%) | 280,649(36.8%) | 154,432(20.3%) |
1911 | 839,896(100%) | 529,943(63.1%) | 301,617(35.9%) | 178,647(21.3%) | ||
1921 | 909,246(100%) | 596,694(65.6%) | 218,737(24.1%) | 576,430(63.4%) | 315,140(34.7%) | 208,961(23.0%) |
1931 | 1,008,535(100%) | 653,699(64.8%) | 255,469(25.3%) | 637,580(63.2%) | 337,661(33.5%) | 242,381(24.0%) |
1826年、コンバウン朝は第一次英緬戦争に敗北し、ラカインをイギリスに割譲した。1886年には、コンバウン朝は第三次英緬戦争に敗北して滅亡し、ミャンマー全土が英領インド・ビルマ州に編入された。ミャンマーが独立したのは1948年なので、ミャンマー全土がイギリスの植民地化にあったのは、途中、日本の占領期を挟んで、約60年だったのに対し、ラカインは2倍の約120年ということになる。
そしてこの時期、ベンガル地方からラカイン北部へ多くの人々が流入した。特徴としては、ムスリムで、季節労働者よりも定住者が多く、農業に従事していたが、小作農ではなく耕地所有者が多いということだった[32]。一方、ラカイン南部にはビルマ族の流入もあった[35]。1872年から1931年にかけての仏教徒の人口増加率は79%、ムスリムの人口増加率は297%である。ちなみにこの間、1937年にミャンマーが英領インドから分離されて、英領ビルマになるまでは、ベンガル地方からの移民は不法移民ではなかったことに注意が必要である。
英植民地政府は、当初、統治前から住んでいたムスリムと統治後に移民としてやってきたムスリムを区別していなかったが、1921年と1931年の国勢調査では、前者を「アラカン・マホメッダン(Mahomedans)」と呼んでインド系ビルマ人に分類し、後者を「チッタゴニアン(Chittagonian)」と呼んでインド人に分類した[36]。この頃は「アラカン・マホメッダン」は「チッタゴニアン」を一段低く見て、交わろうとしなかったのだという[25]。ちなみに英植民地政府は公式にはロアンヤ、ルワンヤという言葉を1度も使っていない[37]。
1930年と1938年に、ヤンゴンでは大規模な反インド系移民暴動が起きたが、ラカインではほとんど暴力沙汰はなかった。その理由についてジャックス・P・ライダーは(1)当時のラカインは人口密度が低く、ムスリムとラカイン族との間に住み分けができていた(2)ラカイン族の耕地所有者がムスリムの季節労働者の労働力に依存していたからと述べている。しかし、ラカイン州が日本軍とイギリス軍との間の戦場になると情勢が変わった。1942年に日本軍がミャンマーを占領し、アキャブ空港を占領する5月4日に先立つこと1ヶ月前の4月3日、アキャブに先に到着したビルマ独立義勇軍(BIA)が、アキャブの南にあるミンビャ(Minbya)、ミエボン(Myebon)、パウトー(Pauktaw)に住む少数派のムスリムを襲撃・殺害して、彼らを村から追放する事件が発生した。BIAはビルマ族を中心に構成され、直にムスリムに接したことがなかったので、根深い反インド系移民・反ムスリム感情を抱いていたと言われている。6月にはBIAはチャウトー(Kyauktaw)に住むムスリムを襲撃して、家屋やモスクを放火した。これに対してムスリムも反撃し、逃げこんだブディタウンやマウンドーの仏塔、寺院、ラカイン族の家屋を放火・破壊した。一説には、ムスリム、ラカイン族双方で4万人の死者が出たとも言われ[38]、現在のバングラデシュ領への避難民も発生した[39]。1943年のイギリスのラカイン奪還作戦の最中には、ラカイン族とムスリムがお互いを襲撃し合うという悲劇も発生した。またラカイン族がビルマ国民軍傘下のアラカン防衛軍(Arakan Defence Army:ADA)に付いたのに対し、ムスリムはイギリス軍が結成したVフォースに付いて諜報・破壊活動に携わり(イギリスはムスリム独立国家の創設を約束していたとも伝えられる[38])、これにより両者の対立が深まっていった[40]。一説には、Vフォースの攻撃によって2万人以上のラカイン族が殺害されたと言われており、またムスリム側の証言によればほぼ同数のムスリムがラカイン族に殺害されたとも言われている[41]。この時期の暴力的な衝突の歴史は、今も双方のコミュニティーで語り継がれており、相手を攻撃する際の論拠にもなっている[42]。
1945年、第2次世界大戦が終了すると、早くもラカイン北部にはバングラデシュからの不法移民が流入し始めた。1947年2月に英ビルマ総督が英インド総督に宛てた手紙には、ブティダウンとマウンドーに約6万3千人の不法移民がいるとある[43]。この戦後の不法移民は英植民地統治前からラカインに住むルワンヤ、英植民地時代にラカインに移住してきたチッタゴニアンとは区別されて、ムジャヒッドと呼ばれた。
1946年5月、ムジャヒッドたちはミャンマーからの分離を表明し、北アラカン・ムスリム連盟(North Arakan Muslim League)を結成、パキスタンへの併合を求める決議を可決した。ルワンヤやチッタゴニアンたちは賛同しなかったと伝えられている[44]。そしてムジャヒッドたちは、インドからの独立が目前に迫っていたパキスタンのカラチに赴き、後にパキスタン初代大統領となるムハンマド・アリー・ジンナーに、ラカイン北部をパキスタンへ統合することを提案した。しかし、ジンナーはこれをミャンマーの内政問題であると一蹴し、提案を拒否[45]。その後もムジャヒッドたちは、何度かラカインにムスリム自治区を設けるよう政府に要請したが、その際、シャリーアの導入やウルドゥー語教育の採用を要求したため、かえって分離主義者だという悪評が立つ結果となった[36]。
そして1948年1月にミャンマーがビルマ連邦として英国からの独立した直後の同年8月、アブドゥル・カシム(Abdul Kasim)という地元の人気歌手だったムジャヒッドの1人が、ムジャヒッド党(Mujahid Party)という武装組織を結成し、ムスリムの自治区設置を訴えて、ラカインで反政府武装闘争を始めた。件の反乱は他の反乱に比べれば小規模なものだったが、当時国軍は、ビルマ共産党(CPB)やカレン民族防衛機構(KNDO)の反乱鎮圧にかかりきりで、ラカインまで手が回らず、この隙に乗じてムジャヒッド党はまたたくまにラカイン北部を制圧した。その際、ラカイン族の村々を焼き払い、多大な犠牲者が出す一方、ラカイン族から奪った村々に東パキスタン(バングラデシュ)から人々を移住させていたとも伝えられている。また逆に戦乱に巻き込まれたムスリムが東パキスタンに流出し、一時は3万人もの避難民がいたとも伝えられている[39]。しかしムジャヒッド党は、住民やミャンマー国内の他のムスリムの協力と理解を得られず、逆にインドとイギリスから莫大な軍事援助を得た国軍が、CPBとKNDOの反乱をほぼ鎮圧した1949年頃から、国軍の反撃に遭うようになった。1950年、アブドゥル・カシムは暗殺され、1954年のモンスーン作戦という国軍の軍事作戦の後は反乱は沈静化。1958年にはネウィン選挙管理内閣の下、ミャンマー・バングラデシュの国境地帯で厳格な不法移民の取締りを行い、1万3500人ほどのムスリムがバングラデシュに流出する事態が生じた[39]。後の国軍総司令官、NLD副議長で、当時中佐としてこの取締りに従事していたティンウーは、「不法移民の多くは国境を越えるよう命令されても足踏みしていた。だから国軍は、命令どおりに国境を越えなければ発砲するぞと、彼らに銃を突きつけなければならなかった。暴力の脅威にさらされた彼らは、突如として東パキスタンに押し寄せた」と述懐している[14]。1960年、ムジャヒッド党は政府に降伏し、反乱は終結した。
一方、ムジャヒッドの武装闘争とは別に、他のラカインのムスリムたちはミャンマーの政党政治に参加する道を選び、1947年、1951年、1956年に実施された選挙で国会議員を複数人輩出。ブティダウン選出のスルタン・ムハンマド(Sultan Mohmud)というムスリム議員は、1960年から1962年まで政府の保健大臣を務めた[41]。1950年代にはラカイン族の議員たちがラカイン州の設置を要求し始め、政府はこれに反対していたが、仮にラカイン州が設置されれば、少数派のムスリムが不利な境遇に置かれる可能性が高いと考えたムスリム議員たちもこれに反対しており、両者の思惑が一致した格好だった[46]。
そもそも1947年に制定された憲法第11条では、以下の3つのケースで土着民族として国籍を認められていた。
また帰化による国籍取得も広く認められ、「ミャンマーを含むイギリス領内で生まれて、ミャンマー国内のいずれかの場所で、憲法制定前の10年、あるいは1942年1月(日本軍の侵攻開始の年月)までの10年間のうち8年以上暮らし、今後も居住する意思がある者」には国籍が認められていた[47]。この点、スルタン・ムハンマドが、ラカインのムスリムがこの「土着民族」に含まれるか、議会で異議申し立てをしたところ、当時の大統領・サオ・シュエタイッは「アラカンのムスリムは土着民族の1つに属する」と明言している[25]。1951年に12歳以上のミャンマー国民に発行された『国民登録カード(NRC:National Registration Cards)』(男性は緑、女性はピンク[48])は、人種や宗教の項目はなく[49]、ラカインのムスリムの人々にも交付されており、紛失または損傷させた場合は新たなNRCが交付されるまでの間、『仮登録証明書(TRC:Temporary Registration Certificates)』(ホワイト・カード)を交付された。
1950年、ラカイン北部選出のムスリム議員・アブドゥル・ガファルが、ウー・ヌ首相に宛てた書簡の中で、ルワンヤという言葉を使った。「ロヒンギャ(Rohingya)」という言葉が初めて使われたのは、1959年に結成されたヤンゴン大学の学生団体・ラングーン大学ロヒンギャ学生協会(Rangoon University Rohingya Students Association)[50]」と言われており、彼らは翌年『ロヒンギャ小史』というブックレットを発行している。他にも当時、統一ロヒンギャ機構(United Rohingya Organization)、ロヒンギャ青年機構(Rohingya Youth Organization)、ロヒンギャ学生機構(Rohingya Students Organization)、ロヒンギャ労働機構(Rohingya Labour Organization)といったロヒンギャの名前を冠した組織があった[51]。この時点では、ロヒンギャは、やはり英植民地統治前からラカイン北部に住むムスリムのみを指す言葉だった[36]。ミャンマー政治史の専門家・中西嘉宏は、「ロヒンギャは、1950年代に、ラカイン出身のエリートムスリムによって作られた集団名である可能性が高い」としており[19]、内田勝己は、その背景について、イギリス軍に約束されたムスリムの独立国家もパキスタンへの編入も実現困難となった中、ラカインのムスリムが早急にアイデンティティを確立することが求められたからと述べている[32]。ただバーティル・リントナーによると、当時、ロヒンギャという言葉は、一部のエリートムスリムの間で使われていたのみで、それほど人口に膾炙してはおらず、この時期のラカイン北部出身のムスリム国会議員たちも自認は「アラカン・ムスリム」で[24]、スルタン・ムハンマドはラカインのムスリムの分裂を招きかねない言葉の使用に反対していたのだという[36]。
しかしこの時期の政府は、ラカインのムスリムの協力を取りつけるために[24]、このロヒンギャの呼称を受け入れ、1960年には、ムスリム議員たちの意向を受けて、ラカイン北部に政府直轄地のムスリム居住区・マユ辺境行政区を設置した(同年、ラカイン州とモン州の設立も決定されている[46])。行政区設置記念式典では、当時、国軍No.2だったアウンジーが「ロヒンギャ民族、ロヒンギャ指導者、ロヒンギャ宗教指導者」という言葉を使って、国軍への協力と情報提供を呼びかけている[52]。ただその実態は、ムスリム議員たちが求めていたような自治区ではなく、反乱軍や密輸業者や不法移民の取締りのために国軍の支配を拡大するようなものだった[36]。そして1962年にネウィンがクーデターを起こして軍事独裁政権が成立した後、1964年にマユ辺境行政区は廃止された。
ネウィンは国民を土着民族(タインインダー)とそれ以外に二分した。その姿勢は、ネウィン自身が起草した唯一の演説と言われる、1964年2月12日連邦記念日の演説に表れている。
すべてのタインインダーの友愛と団結が経済、社会が繁栄し、また安定して統一された国家を建設するうえで基本となることを、すべてのタインインダーは受け入れる必要がある。タインインダー間の友愛と団結のためには、カチン族、カレンニー族、カレン族、チン族、ビルマ族、シャン族その他のビルマ連邦に住むタインインダーたちは、どんなことがあっても、生涯に渡ってともに協力する必要がある。それができたときだけ、タインインダーたちはお互いに手と手をとって、連邦やそこに住む諸民族のために、信頼とともに働けるだろう[53]。
土着民族以外の人々とは、英植民地時代に土着民族を搾取したとされる中国人、インド人、ヨーロッパ人を想定されていたが、バングラデシュからの不法移民が相当数含まれていると考えられたロヒンギャもこれに含まれて考えられるようになり、公職就任禁止、移動制限、身分証発行停止などの制限が課せられた。また1964年に外国企業が国有化されると、ロヒンギャ所有の企業も国有化され、ロヒンギャ関係の各組織が解散させられた。
この状況に危機感を感じたロヒンギャのエリートたちは、自らを土着民族に含めるべく、アラカン王国時代ポルトガルやオランダの資料、ベンガル語で書かれた文学作品、過去の伝説を参照して、ロヒンギャをラカインの先住民族とする「ロヒンギャの歴史」を創り始め、それを主に英語で発信し始めた[36]。例えば、ラカイン州ミャウウーのシッタウン・パゴダ内にある、8世紀のものといわれるアナンダチャンドラ碑文[54]は、現在のロヒンギャ語に近い古代ベンガル文字で書かれているとされている[55]。他にもラカインの仏教年代記にあるインドからの難破船に関する記述を、アラブ人やペルシャの商人の到来(イスラム教の到来)を示す証拠と解釈したり、ロヒンギャを古代アラブ人、ペルシャ人、アフガニスタン人、ベンガル人、ムガール人の混血としたり、アラカン王国の王をスルターンと見なし、1785年にコンバウン朝によって王国が滅ぼされる前は、ムスリム人口が仏教徒人口を上回っていたとしたり[36]。しかしこれらの解釈は、歴史学者や考古学者からは憶測や主観、事実の歪曲や修正にもとづくものであると評されている[41]。また彼らは英植民地時代に流入したベンガル人やイギリスの国勢調査を無視して、ロヒンギャの人口増加を自然増と主張するが(ゆえに前述のチッタゴニアン、ムジャヒッドの区別はなくなった)、[36]それが事実とすると、1842年にコムストック牧師がラカインのムスリム人口を約2万人を記録して以来[56]、ラカイン全体のムスリム人口が100倍近く増加し、第二次世界大戦後、シットウェ、ミャウウー、マウンドーでは、近隣のバングラデシュの2倍の割合で人口が増加している計算になるのだという[25]。
1971年、第3次印パ戦争勃発。結果的にバングラデシュが誕生したこの戦争で、バングラデシュからラカイン州に約50万人の難民が流入したと言われている。在ヤンゴンのバングラデシュ大使・K.M.カイザー(K.M.Kaiser)はイギリス大使・T.J.オブライエンに「ラカインには50万人以上のベンガル人の不法移民がいる」と述べたと伝えられる[41](しかしこれは、後述するように1983年の国勢調査ではラカイン州のムスリム人口は49万7208人とされているので、不法移民ではなく、ラカイン州のムスリム人口を指していた可能性がある[25])。真偽・詳細は不明だが、この件は一般ミャンマー人の間にも広く膾炙し、ロヒンギャは不法移民であると深く印象づけられた[57]。
1978年2月には、ラカイン州北部で、国籍審査を名目にした「ドラゴン・キング(ナガーミン)作戦」が発動された。ちなみに同作戦は、広く信じられている話と違い、前年、カチン州、チン州、ヤンゴン地方域でも実施されている[41]。これは政府が1964年に非ミャンマー人、市民権を持たない者を含めた領土内に住む全住民に『国民登録カード(NRC)』を発行して居住権を認めたところ、このNRCを所持しない不法移民の摘発というのが実態だった。ラカイン州の場合、国境管理が適切に行われなかったこともあり、独立後から入植者または季節労働者としてバングラデシュから絶えず移民が流入していたが、彼らにも1964年にNRCが発行され、ミャンマー国内の滞在が認めてられていた[58](ただしキンニュンの自伝によれば当時ロヒンギャという名称はまったく使われておらず、単にムスリムと呼んでいたのだという[59])。しかし作戦遂行の過程で、人々がパニック状態に陥り(ザゴリン国連バングラデシュ開発計画局長は「集団ヒステリー」と呼んだ[25])、結果的に約30万人のロヒンギャがバングラデシュに流出する事態となった。最初のロヒンギャ大量流出劇である。ミャンマー外務省傘下のミャンマー戦略国際問題研究所(MISIS)のレポートによれば、ブティダウンでは83の村落、1万7193世帯、10万8431人を審査して、643人の不法移民を発見、3万5596人がバングラデシュへ逃亡、マウンドーでは99の村落、1万9418世帯、12万5983人を審査して、458人の不法移民を発見、9万8227人がバングラデシュへ逃亡、その他の地域から15万6683人がバングラデシュへ逃亡したとのことである[41]。審査数に比して不法移民の数が大変少なく、件の作戦に従事した後の首相キンニュンなどは、自著の『ミャンマー西門の難題』の中で「政府が国境管理に劇的に成功した証拠」と自画自賛しているが、人権活動家のマウンザーニ(Maung Zarni)は「ほとんどの不法移民が急いで逃亡したため」と述べ、実際の不法移民の数ははるかに多かったのではないかと指摘している[60]。いずれにせよ、これもまた広く信じられている話と違い、この流出劇はミャンマー政府が意図的に彼らを追放したのではない可能性が高く、同年6月13日のアメリカ大使館の報告では「イギリス、オーストラリア、西ドイツ、マレーシアの各大使と話し合った結果、意図的な追放という告発はかなり誇張されているということで意見が一致」「ミャンマー政府がロヒンギャをラカイン州から追放する組織的キャンペーンに着手したとか、難民が主張する残虐行為があったとかという話はかなり疑わしい」と述べられている[25]。
この事態を受けて、莫大な資金を持つサウジアラビアの慈善団体ラビタット・アル・アラム・アル・イスラミ(Rabitat al Alam al Islami)は、ロヒンギャ難民の支援を開始し、コックスバザールの南にあるウキアに病院と神学校を建設した[61]。後にバングラデシュとの間の帰還協定により大半がラカイン州に帰還したが、中にはパキスタンやサウジアラビアに移民した人々もおり、ロヒンギャのディアスポラの端緒となった[62]。
1982年、新たな国籍法[63]が制定された。法改正の目的は不法移民の取締りだったが、これにより、国籍取得の資格のある者は以下の3つに分類された。
国民、準国民、帰化国民との間に明白な権利・義務の格差は存在はなく[65]、第6条で既に市民権を有する者は、虚偽の申告により市民権を取得した場合を除き、引き続き市民権を認められ、第7条で「準国民」「帰化国民」は3代経てば「国民」になれると規定されていた。だからこれも広く信じられている話と違い、件の新国籍法は、1948年の独立後の不法移民以外の居住者を広く国民と認める施策であり、それは新国籍法制定にあたって、1982年10月8日にネウィンが行った演説からも窺い知れる。
われわれは現実には、さまざまな土地からさまざまな理由でやってきた人々をすべて追い払う立場にはない。われわれは、このように長い間ここにいた人々に同情し、心の安らぎを与えなければならない。 そこでこの法律では、彼らを「準市民」と呼ぶことにした。 なぜこのような名前をつけたのか? というのも、われわれは皆、初めは市民でした。その後、この人たちはゲストとしてやって来て、やがて帰ることができなくなり、残りの人生をここで暮らすことを決めたのです。 そんな彼らの苦境を見て、われわれは彼らを市民として受け入れる。 この国に住み、正当な方法で生計を立てる権利を寛大に与えることができる。 しかし、国の問題や国家の運命に関わる問題については、彼らを除外せざるを得ません[25]。
また2012年7月11日、当時国連難民高等弁務官だったアントニオ・グレーデスと面会したテインセイン大統領が、ミャンマー語のみの声明で、次のように述べていることからも、それは明らかである(この声明は「テインセイン大統領は『国連はすべてのロヒンギャを抑留して、海外に放逐すべきだ』と述べた」と誤って報道された)。
植民地時代に多くのベンガル人が職を求めてラカインを訪れ、その一部はミャンマーにとどまることを選んだ。ミャンマーの憲法の下では、これらの移民の3代目の子孫は、すべてミャンマーの市民権を得る権利を保障されている。しかし、植民地時代が終わった後にミャンマーにやってきて、ロヒンギャと名乗っている不法移民もいる。彼らの存在は安定を脅かしており、われわれは彼らに責任を持つことができない。国連は彼らを、第三国に移送されるまで、難民キャンプに収容すべきだ[66]。
テインセインのこの発言は、1948年以降に不法入国した者たちを除いて、ムスリムは市民権を保証されていることを追認するものだった。
またアウンサンスーチーも2013年4月の来日の際に、人権NGOとの交流会で、3世代以上にわたって住んでいるロヒンギャたちには国籍を与えるべきであり、国籍法の差別的な内容ついて再検討する必要があると語っている[67]。
ただ「国民」の「土着民族(タインインダー)」には135の民族のカテゴリーがあるが、この「135の民族」というのは、1990年に新国籍法が施行された時に発表されたもので、1982年に新国籍法が制定された当時は、1973年の国勢調査で使用されたカテゴリーにもとづいていた。しかしそのカテゴリーでも、メェードゥー(Myedu)、カマン、アラカン・ムスリム、その他インド系ムスリム、ビルマ系ムスリム、中国系ムスリムといったムスリムの土着民族が認められていたが、ロヒンギャは認められていなかった。また「準国民」の「1948年国籍法に従い国籍取得を申請する」ことも「帰化国民」の「1948年1月4日までにミャンマーに住んでいることを証明する」ことも、1948年の独立直後からラカイン州では約10年間ムジャヒッド党が続いていたこと、ロヒンギャには文盲が多かったことに鑑みれば、ラカイン州に住むロヒンギャには実質不可能だった。ゆえにロヒンギャは「国民」にも「準国民」にも「帰化国民」にも該当せず、過去になんらかの手段で市民権を取得している者以外(ラカイン州以外に住むロヒンギャは、なんらかの市民権を継続することはさほど困難ではなかったようである[25])は、無国籍状態に陥り、不法移民と見なされるようになったのである。多くの識者がロヒンギャが不法移民となった原因は、新国籍法の規定にあるのではなく、その運用の失敗にあると指摘している[25][68]。タンミンウーは『ビルマ 危機の本質』のP229で、「ビルマの大臣たちは非公式には、最大20%が不法移民であることを認めた」と述べており[66]、これはミャンマー人の一般的認識よりははるかに低い数字であるが、国軍中枢の人々がロヒンギャが無国籍・不法移民状態にあるのは、新国籍法の運用の失敗が理由であることを暗に認めていることを示唆するものである。
ただこの新国籍法は制定されたものの、長い間棚晒し状態にあり、施行されたのは8888民主化運動後、国家秩序回復評議会(SLORC)が成立してからで[49]、結局結果を反故にされた1990年の総選挙でもロヒンギャは選挙権も被選挙権も認められ、実際、ロヒンギャを支持基盤とする国民人権民主党 (National Democratic Party for Human Rights)が4議席を獲得している。
ちなみに翌1983年にも国勢調査が行われているが、1931年に比べて、ラカイン州のムスリム人口は25万5469人から58万5092人、ロヒンギャ人口(1931年はインド系ムスリム、1983年はバングラデシュ人)は19万7560人から49万7208人といずれもかなり増加している。また2014年の国勢調査では、推定値ながら、ラカイン州のムスリム人口は111万8731人となっている[32]。
ムジャヒッド党が鎮圧された後、国境地帯ではムスリム(ロヒンギャ)民族解放党(The Muslim 《or Rohingya》 National Liberation Party:MNLP)という武装勢力が活動していたが、大きな勢力にはならなかった[69]。
ネウィン軍事独裁政権の弾圧が強まると、ヤンゴン大学に通うロヒンギャ学生・ジャファル・ハビブ(Jafar Habib)が、1964年4月26日ロヒンギャ独立戦線(Rohingya Independence Front:RIF)という組織を結成した(1973年ロヒンギャ愛国戦線《Rohingya Patriotic Front:RPF》と改名)[69]。ロヒンギャの名前を冠した最初の武装組織だったが、彼らは武装闘争は行わず、ムスリムの国際社会に対してロヒンギャの窮状を訴える活動を行った。が、ほとんど支援を得られず、国境地帯に小規模なキャンプを設け、さらにチッタゴンに拠点を置いてロヒンギャに関する会報、ニュースレター、小冊子を発行する活動を行うに留まった[61]。同年1972年にはムジャヒッド党の残党がロヒンギャ解放軍( Rohingya Liberation Army:RLA)を結成したが、こちらも1974年までに鎮圧された。
1982年の国籍法改正を受け、ラカイン州出身の医師・モハメド・ユヌス(Mohammed Yunus)がRPFの過激派を率いて、ロヒンギャ連帯機構(Rohingya Solidarity Organisation:RSO)を結成、チッタゴンのウキアにキャンプを設け、サウジアラビアの慈善団体がコックスバザールに建設した難民キャンプを維持した。彼らはより厳格なムスリム路線を取り、バングラデシュのジャマーアテ・イスラーミー、アフガニスタンのヒズベ・イスラーミー・ヘクマティヤール派(Hizb-e-Islami)、インド・カシミール地方のヒズブル・ムジャーヒディーン、マレーシアのイスラーム青年運動(Angkatan Belia Islam )などと連帯。ソ連軍と戦った経験のあるアフガニスタン人の退役軍人の教官がおり、100人ほどのRSO兵士が、アフガニスタンのホースト州でヒズベ・イスラーミー・ヘクマティヤール派の軍事訓練を受けたのだという[41]。またタイの武器商人から購入したRPG、機関銃、ライフルなどの兵器をバングラデシュの武装組織に供給し、件の武装組織のメンバーに軍事訓練を施したりしていた。しかしミャンマー国内での武装闘争に反対するメンバーが多く[70]、国内ではまったく武装闘争を行わなかった[61]。1986年から1987年にかけて、RPFの一派と元弁護士のヌルル・イスラム(Nurul Isram)率いるRSOの一派が結集して、より穏健なアラカン・ロヒンギャ・イスラーム戦線(Arakan Rohingya Islamic Front:ARIF)を結成したが、こちらも武装闘争は行わず、ラカイン州北部にムスリムの自治領を求める活動を行うに留まった。
一方で、ロヒンギャの武装勢力が台頭する懸念を抱いていたラカイン族の人々と、必ずしもロヒンギャと自認しておらず、「アラカン・ムスリム」と自認していた多くのラカイン州のムスリムの人々の意を汲んで、自身は「アラカン・ムスリム」で、妻はカマン族というウー・チャウフラー(U Kyaw Hla)が、アラカン解放機構(Arakan Liberation Organisation:ALO)を結成した。ラカイン州のムスリムを「非ロヒンギャ」と定義づけることで、他の武装勢力と協力して勢力拡大を図り、少数民族武装勢力の同盟・民族民主戦線(NDF)への加盟を模索したが、ラカイン族の武装勢力・アラカン解放軍(ALA)の反対に遭って実現しなかった(ALPはRPFのNDF加盟にも反対していた)。その後、ALOはカレンニー軍(KA)から軍事訓練を受け、1986年にバングラデシュとの国境地帯に拠点を設けようとしたが、ロヒンギャの武装勢力によって武装解除され挫折。ALOはビルマ・ムスリム解放機構(Muslim Liberation Organisaition of Burma:MLOB)に改編され、その後10年間、一定の政治力を持ち[71]、8888民主化運動後、少数民族武装勢力と民主派勢力の連帯の機運が高まった際には、ビルマ民主同盟(DAB)とビルマ連邦国民政府(NCGUB)の創設にも関わった[72]。
1989年、1982年に制定された新国籍法がようやく施行され、国民登録カード(NRC)を有している者は、『市民権セキュリティ・カード(CSC:Citizenship Scrutiny Cards)』に差替えられることになった。CSCは市民権の地位ごとに色分けされており、国民=ピンク、準国民=青、帰化国民=緑となっていた。しかしNRCを有しているロヒンギャがカードを返却しても、いずれのカードも発行されず、NRCも戻ってこず、1995年になってようやく、正規のカードが損傷・紛失した場合に発行される仮登録証明書(TRC)(ホワイト・カード)が発行されただけだった[73]。これは登録担当者が、ミャンマー・バングラデシュ国境地帯での偽造身分証明書の使用を根絶するために、上司からの命令に従って行動した結果だったようだ[49]。この措置により、ほとんどのロヒンギャが名実ともに無国籍状態に陥り、不法移民となった。ただこのTRCを所持していれば2008年の憲法承認の国民投票と2010年の総選挙には参加でき、後者ではロヒンギャを支持基盤とする国民発展民主党(NDPD)が地方議会で2議席を獲得している。
1991年、RSOとARIFが新たな資金源を得て軍事訓練を始め軍事活動を活発化させたことにより、国軍はこれらの武装組織掃討を目的として「清潔で美しい国作戦(Operation Pyi Thaya)」を発動。作戦の詳細は明らかになっていないが、約25万人の難民がバングラデシュに流出する事態となった。8888民主化運動直後の出来事だったので、この事件は国際的注目を浴び、ロヒンギャの存在が世界中に知られるきっかけとなった。西側諸国がラカイン州のムスリムを指してロヒンギャと呼ぶようになったのもこの頃である。これまでは西側諸国の公式文書には「ロヒンギャ連帯機構」などの固有名詞を除いて、「ロヒンギャ」という言葉はまったく登場しておらず、1978年の最初の大量流出の際には、アメリカは「アラカン・チッタゴン」、イギリスは「アラカン系ムスリム」という言葉を使用していた[74]。結局、政府はまたしてもバングラデシュ政府と帰還協定を締結し、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の支援を受け、約19万人のロヒンギャ難民がラカイン州に帰還した[75]。この頃になると、ラカイン族の間では、ロヒンギャがさまざまな国際的支援を受けていることに対する不公平感が募っていたのだという[76]。
1992年6月、政府は国境地帯入国管理機構(ナサカ)を設置した。ナサカは軍情報局員によって率いられ、軍情報部、法執行部、入国管理局、税関で構成され、その任務は(1)不法入国の取締り(2)密輸の取締り(3)治安維持(4)諜報活動だった[77]。実際の業務は(a)世帯を登録し、村の地図を作成(b)村の行政組織の設立(c)各世帯の家族の写真撮影(d)村の人口登録(e)訪問者、出生、死亡、結婚の登録・報告システムの構築(f)旅券の発行(g)定期検査の実施(h)村長たちとの定期的会合だった。 まなナサカは「ホワイトカード」という一時的な身分証明書を発行した。しかし大きな権限を持ったナサカは腐敗汚職がひどく、一説には賄賂を受け取って不法移民を入国させ、身分証明書まで発行しており、結果、この時期に不法移民が大幅に増加した可能性が高いと指摘されている。2004年、軍情報局の実権を握っていたキンニュンが失脚した際に、ナサカは大幅に権限と資源を縮小され、その機能は低下した[41]。
また政府はラカイン州北部にナタラと呼ばれる24のモデル村を設立し、この地域の仏教徒の数を増やすために全国の刑務所から脱獄囚を集め、移住させた。2007年の時点で、ナタラには1700世帯以上、8700人以上の住民がいたのだという[41]。
90年代にはイスラーム復興運動の影響がミャンマーにも及び、ミャンマー国内のムスリムがムスリムらしい格好をするようになったり、モスクでの礼拝に列をなすようになったり、786と書かれたムスリム商店が街中に増えたりしていった時期だった。ラカイン州のムスリムたちも、徐々にロヒンギャのアイデンティティに目覚めていったのだという[24]。そしてこの変化を感じ取った仏教徒の間では、ムスリムの武装勢力だけではなく、ムスリムの存在そのものを脅威とみなす雰囲気が強まり、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件でそれは決定的となった[76]。実際、この時期、コックスバザールにあるロヒンギャの難民キャンプはアルカーイダなどのムスリムの過激派組織のリクルートの場になっており[61]、アルカイーダのリーダー・ウサーマ・ビン・ラーディンは、2001年9月28日のカラチの新聞『Ummat』のインタビューに応えて、「ミャンマーには強力なジハード勢力が存在する」と語っている[41]。また後年には、ロヒンギャは、ISILのリクルートの対象にもなっていたのだという[78]。
こうした中、清潔で美しい国作戦で大打撃を受けたRSOは再起を図り、1994年4月28日、マウンドーで爆弾テロ事件を起こしたが、民間人に4人の死傷者を出しただけに終わり、逆に国軍の反撃を受け、30人ほどの兵士を失った[79]。この失敗によりRSOは武装闘争に見切りをつけ、1998年、ARIFと合併してアラカン・ロヒンギャ民族機構(Arakan Rohingya National Organisation:ARNO)を結成した。2000年にはラカイン族武装組織の連帯組織・アラカン民族統一党(The National United Party of Arakan:NUPA)と連帯してアラカン独立同盟(Arakan Independence Alliance:AIA)を結成。これは長年対立してきたロヒンギャとラカイン族が手を結ぶ画期的な試みだったが、むしろこの組織への対応を巡ってラカイン族の武装勢力同士、ひいてはロヒンギャとラカイン族の対立が深まる結果となった[80]。
2003年、バングラデシュ当局にチッタゴンとコックスバザールにあるARNO事務所を捜索され、数百人のメンバーが銃器密売・麻薬密売の容疑で一斉検挙され壊滅的打撃を受け、武装闘争からの引退を表明した。同年4月にARNOの武装組織・ロヒンギャ民族軍(Rohingya National Army:RNA)がマウンドーのナサカの事務所を2度攻撃して少なくとも4人の警察官を殺害したという事件があったが[81]、以降、武装闘争はなりを潜めている。その後、ARNOの3つの派閥がいずれもRSOを名乗って活動を続けていったが[61]、彼らは、ハルカトゥル・ジハード・アル・イスラーミー(HuJI)のようなバングラデシュの過激派組織と連携していると伝えられている[82]。
2011年、ミャンマーは民政移管したが、テインセイン政権下で言論の自由が広がり、ネットが自由化されたことにより、Facebookにはムスリムヘイトが溢れるようになった。この反イスラム運動は969運動と呼ばれ、その中心人物の僧侶・アシン・ウィラトゥはアメリカのタイム誌の表紙に「仏教徒テロリストの顔」として紹介されたことがあった。2012年5月にはラカイン族の少女が、ロヒンギャの男性に強姦されて殺害された事件をきっかけに両者の間に衝突が発生。10月までに150人以上が死亡、10万人以上のロヒンギャがバングラデシュに流出する事態となった。またこの事件を機に、政府はロヒンギャの人権を侵害していると国内外から批判の的になっていたナサカを解散したが、この措置は、国軍がラカイン州北部の状況を把握できなくなり、2016年のアラカン・ロヒンギャ救世軍の最初の襲撃を防止できなかった原因と言われている[83]。この事件以降もラカイン州ではムスリムと仏教徒の衝突が頻発、ラカイン州以外でもメイティーラ、ヤンゴン近郊のオッカン、ラーショーで反ムスリムの暴動が発生し、多数の死傷者が出た。またこの宗教問題は海外にも飛び火し、2013年4月、インドネシア・スマトラ島で多数派のロヒンギャ難民が少数派の仏教徒難民を8人殺害する事件が発生、マレーシアでは仏教徒ミャンマー人を狙った襲撃事件が頻発した。2015年にはムスリムに対して差別的な民族保護法4法[84](改宗法、女性仏教徒の特別婚姻法、人口抑制保健法、一夫一婦法)が成立した[85][86]。
そしてこの時期、ラカイン州のムスリムの人々はますますロヒンギャのアイデンティティに目覚めて行ったようだ。テインセイン政権下のミャンマー平和センターで、少数民族武装勢力との和平に取り組んでいたチョーインフラインは「イスラム教徒は2011年までは自らが置かれた地位に甘んじなければならないと感じていた。だが、自ら投票した2010年の選挙の後、2011年の政治の変化の後では、より自由に物事を考えるようになった……2012年に彼らと話したとき、自らをロヒンギャと呼ぶ者は1人もいなかったが、2012年の末には誰もがそうしていた」と述べている[83]。また国際危機グループの『The Politics of Rakhine State(2014)』というレポートでは、「2012年の暴力が状況を変えました。 暴力が起こる前は、私たちのロヒンギャの名前は毎日考えるようなものではありませんでした。 暴力以来、私たちからすべてが奪われ、今、私たちに残っているのはロヒンギャのアイデンティティだけです」というロヒンギャの長老の言葉が紹介されている[87]。
2015年2月11日、テインセイン大統領は、1995年にロヒンギャに対して発行した仮登録証明書(TRC)が同年3月31日に失効するので、5月末までにTRCを当局に返却しなければならないと発表。代わりに6月から『国民証明書(NVC:National Verification Certificates)』の交付を開始した。しかし交付の際に、ロヒンギャの人々がベンガル人を自認することを求められたために混乱が生じ、結果的にNVCの交付率は著しく低く留まり、多くのロヒンギャが2015年の総選挙で投票ができなかった[73]。
そんな中で行われた総選挙ではアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が大勝利を収め、実質アウンサンスーチー政権が成立。2016年、スーチーは、元国連事務総長・コフィー・アナンを長とするラカイン州諮問委員会を設置して、ラカイン州のさまざまな課題に取り組む姿勢を見せた。しかし同年10月19日、ラカイン州の国境警備隊の複数の監視所を銃や爆弾で武装した350人ほどの集団が襲撃し、警察官9名が殺害される事件が発生。この時、武装勢力は「ハルカ・アル・ヤキン」(信仰の運動)と名乗っており、サウジアラビア出身のムスリムがリーダーで、豊富な資金を持ち、外国で訓練を受けていたということしかわかっていなかった。国軍はこの襲撃に対して大がかりな掃討作戦を実行。その際、約7万人のロヒンギャがバングラデシュに流出し、多数のロヒンギャ民間人を巻き込んだとして激しい国際非難を浴びた[88][89]。これに対してスーチーは、「元はと言えば、武装勢力の襲撃に対して国軍が反撃したことがきっかけだ」「今起きていることを言い表すのに民族浄化は表現が強すぎる」などと抗弁し[90]、国際調査団の受入れを拒否した[91]。同様にバングラデシュのシェイク・ハシナ首相も「(武装勢力による)10日9日の襲撃がきっかけになって今回の問題が生じた」と述べている[92]。
そしてラカイン州諮問委員会が、国籍法の改正によるロヒンギャへの国籍付与などを勧告する最終報告書[93](ただし報告書の中ではロヒンギャという言葉は1度も使っていない[67])を提出した翌日の2017年8月25日、ラカイン州で約5000人の兵士が鉈や竹槍で武装化した住民を引き連れ、再び約30ヶ所の警察署を襲撃し、数日間の戦闘で治安部隊に14人、公務員に1人、件の武装勢力に371人の死者が出る事件が発生した。武装勢力の正体は前年にも警察を襲撃したハルカ・アル・ヤキンで、今回はアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)と名乗っていた。襲撃直後、政府はアラカン・ロヒンギャ救世軍をテロ組織に認定し、ティンチョー大統領は事件が起きたラカイン州北部を軍事作戦地域に指定して、軍事作戦の遂行を許可した。これを受けて国軍はロヒンギ激烈な掃討作戦を展開。ARSAのメンバーが逃げこんだ村々を放火し、その過程で拷問、処刑、強姦などの蛮行を働く一方、ARSAはヒンドゥー教徒の人々を虐殺したとも伝えられている[94]。結果的に約70万人と言われるロヒンギャ難民がバングラデシュに流出する未曾有の事態となり、世間は騒然とした。なおこの掃討作戦には国軍、国境警備隊、警察だけではなくラカイン族の一般の人々も多数関わっていたとされる[95][23]。
この国軍の掃討作戦に対して、国際社会ではジェノサイドとの批判が高まったが、これを認めないスーチーに対する批判も高まり、ノーベル平和賞剥奪運動が巻き起こり、アムネスティ・インターナショナルの良心の大使賞など数々の名誉が剥奪された。そして2019年11月11日、ミャンマーに対して起こされたジェノサイド規定違反のハーグ国際司法裁判所(ICJ)の場で、スーチーがあらためてジェノサイドを否定したことにより、彼女の国際的名声は完全に失墜したのだった[76]。ただし、これとは逆にミャンマー国内では、ロヒンギャに嫌悪感を持つ多くの国民がスーチーと国軍を支持した[96][97]。同年9月から10月にかけて国軍総司令官のミンアウンフラインが「1942年の未完の仕事をやり遂げる」という発言を繰り返すと、彼のFacebookのフォロワーが激増した[98]。「1942年の未完の仕事」とは、イギリス軍側についたロヒンギャの部隊・Vフォースの攻撃によって2万人以上のラカイン族が殺害されたことに対する復讐を意味していた[99]。
8月25日、ミャンマー国境で武装組織が駐在所20箇所以上を襲撃し、アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)が犯行声明を出した。ミャンマー政府情報省発行の『ニューライト・オブ・ミャンマー』によると、「過激派テロリスト」77人と、治安部隊12人がこの戦闘で死亡した[100][101]。
8月29日現在で、双方で100人を超える死者が出た[102]。
8月30日、複数のロヒンギャ避難民によると、トゥラ・トリ村がミャンマー国軍の襲撃を受け、住民が虐殺された(トゥラ・トリ大虐殺)[103][104][105]。避難民の中には約500人が殺害されたと証言していたが、実数ははっきりしていない[106]。
8月31日、『ニューライト・オブ・ミャンマー』は、政府筋の話として、ARSAメンバー150人が治安部隊を襲撃し、1人殺害され、4人を逮捕したと報じた。同記事によると、ARSAはヒンドゥー教徒を拘束し、治安部隊によって500人以上のヒンドゥー教徒が避難した。これとは別に、警察によって300人が、また別の村のヒンドゥー教徒200人が避難したという[107]。
9月1日までに、ミャンマー軍は8月25日からの戦闘で、「ベンガル人」を399人殺害したと発表した。このうち、370人は「アラカン・ロヒンギャ救世軍」など武装勢力としている。一方、政府側は警官11人と国軍兵士2人、政府職員2人の計15人が死亡。このほか、民間人14人が犠牲になったという[108]。また、ミャンマー政府は「ベンガル人」住居2700軒以上が、武装勢力によって放火されたと発表した。しかし、AP通信などは、(ミャンマー)治安部隊による放火というロヒンギャの証言を報じた。また、「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」は、衛星画像の分析で、ロヒンギャの村の一つで、ほぼ全域の700軒が燃やされ、仏教徒の村では被害を確認できなかったと発表した[109]。同日、ミャンマー国軍のミンアウンフライン最高司令官は式典で、「ラカイン州で1942年の危機を再び起こさせはしない」と主張した。これは、太平洋戦争におけるビルマの戦いで、「ベンガル人」がイギリスに味方したことを指す。その上で、軍の正当性を主張し、「ベンガル人のテロリスト」が「宗教を扇動や暴力的な攻撃の道具にし」たと非難した[110]。
9月4日、ミャンマー政府情報委員会は、ARSAが新たに660軒を放火したと発表した[111]。
9月13日、国連のグテーレス事務総長は、記者に「これは民族浄化だと考えるか」と問われ、「ロヒンギャ人口の1/3が国外に逃れている。これを形容するのにより適した表現がほかにあるだろうか」と答えた[112]。
9月14日、アムネスティ・インターナショナルは衛星写真から、8月25日以降、計画的にロヒンギャの居住地区や村を狙って放火が行われ、数万人が家を失ったとの分析結果を出した。過去4年間、同地で同様の火災は見られなかった。国境沿いで数十人から行った聞き取り調査によると、ミャンマー国軍、警察、自警団がロヒンギャの住居を襲撃し、放火や略奪、殺人を行った。ある村ではガソリンを撒き、ロケット砲で焼き払った。また、一部地域では、役人が事前に焼き討ちを通告していた。アムネスティ・インターナショナルのティラナ・ハッサンは、焼き討ちは「ベンガル人」の犯行とするミャンマーの主張を「露骨な嘘」と非難し、「私たちの調査によると、自警隊と一緒にロヒンギャの家を焼いた責任は、自国(ミャンマー)の治安部隊が負っていることがはっきりしている」と主張した[113][114]。同日、ミンアウンフラインはFacebookで、「過激派のベンガル人」は「ミャンマーでは決して民族集団では無かった、(にもかかわらず)ロヒンギャとしての認知を求めている。ベンガル人問題は国家的な問題であり、私たちは真実を確立するために団結する必要がある」と改めて主張し、「ミャンマーの全ての市民[注釈 1]は、愛国心で連帯し、メディアは団結すべきである」と述べた[115][116]。
9月19日、中国の王毅外相は国連のグテーレス事務総長に対し、ミャンマー政府による安全保障上の努力を「理解し、支持する」と表明した[117]。
9月20日夜、ラカイン州の州都シットウェーの港で、ロヒンギャ避難民への支援物資を船に載せようとしていた国際赤十字のスタッフらが、約300人の仏教徒に火炎瓶や石を投げつけられ、間に入った警察官数人が負傷した。ミャンマー政府によると、積荷は港に留め置かれたままという[118]。
9月21日、ミャンマー国家顧問省の報道官は、朝日新聞の取材に「(アウンサンスーチーは)調査団を受け入れるとは言っていない。現地の平和と安定に調査団は逆効果だ」と述べた[118]。
9月24日、在韓ミャンマー人約700人が、ソウルのUNHCR韓国事務所前で反ロヒンギャ集会を開いた[119]。
9月27日、AP通信は、ロヒンギャが追われた村で、治安部隊や役人らがロヒンギャの家畜を盗み出し、相場の1/4で(非ロヒンギャの)住民や商人に売り払ったと報じた[120]。同記事によると、ミャンマーに残っているロヒンギャは50万人を割っている。
9月28日、国連安全保障理事会は、ロヒンギャ迫害について公開会合を開いた。グテーレス国連事務総長は、8月25日の武力衝突以来の難民が、少なくとも50万人に達したと述べ、さらに25万人が潜在的に家を追われる可能性があると指摘した。その上で、ミャンマー政府に「暴力の即時停止と人道支援の許可、難民の安全な帰還という3つの迅速な対応を求める」とした。米国のヘイリー国連大使は「ミャンマー当局は残忍で、少数民族を粛清するキャンペーンを続けている」と強く非難した。一方、ミャンマーのタウン・トゥン国家安全保障顧問は、問題は「宗教ではなくテロによるもの」「民族浄化やジェノサイドは起きていない」と反論した[29]。
10月11日、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は「ロヒンギャを国外に追放するだけでなく、帰還を阻むため、ミャンマー国軍が意図的に家屋や田畑を破壊・放火した」とする調査報告書を公表した[121]。また従来、ミャンマー国軍側は、8月25日の武装組織による攻撃への反撃と主張していたが、「掃討作戦」は8月の初めから始まっていた可能性を指摘した[122]。
10月16日、ミンアウンフライン最高司令官はフェルトマン国連事務次長(政治局長)との会談で、改めて「「ベンガル人」はミャンマーの民族ではない。1942年に(「ベンガル人」によって)2万人以上のラカイン人が殺されたこと[注釈 2]こそが真の歴史であり、隠すことはできない」と主張した。そして、ミャンマー軍は「ベンガル人」による不法占拠や「ベンガル人」テロリストに合法的に対処したまでとして、(「ベンガル人」では無い)地元民のために安全対策を取る必要があると主張した。さらに、国連の人道支援について、「ベンガル人」テロリストに支援物資が流れているという疑念があり、だからラカイン人は国連の支援に反対している。よって、支援を行うならミャンマーの政府機関との連携が必要だと主張した[123][124]。
10月23日、国連欧州本部で開催された支援国会合において、在ジュネーブ国際機関日本政府代表部の志野光子大使は、ロヒンギャ難民への日本政府による緊急支援を1600万ドルまで拡大することを表明した[125]。
11月13日、ミャンマー国軍は、「ベンガル人」への迫害は「していなかった」。殺害、放火、略奪、強姦などの迫害とされるものは全て「テロリストによるプロパガンダ」とする調査結果を発表した。報告書は、国軍が1ヶ月にわたって「ベンガル人」3217人、ヒンドゥー教徒2157人などに面会調査した結果という。また、「ベンガル人のテロリスト」は6200人~1万人にのぼり、「治安部隊よりも多い」。「ベンガル人のテロリスト」は治安部隊への攻撃を始め、自作自演で放火したり、ヒンドゥー教徒ら105人を拉致したとの見解を示した[126][127]。
11月16日、国際連合は総会第3委員会(人権)でミャンマー政府に対し、軍事力行使の停止や、国連などによる制限のない人道支援を認めるよう求めた決議案を賛成135、反対10、棄権26の賛成多数で採択した[128]。反対はミャンマー、中国、ロシア、ラオス、フィリピン、ベトナム、カンボジア、シリア、ベラルーシ、ジンバブエ。棄権は日本、インド、ネパール、スリランカ、ブータン、タイ、シンガポールなどであった[129]。同日、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、「ビルマ」治安部隊による大規模なレイプが行われていると声明を出した。バングラデシュに逃れたロヒンギャ女性52人、支援者など19人への聞き取り調査によると、強姦の加害者はほぼ全員が軍人で、ラカイン人も共謀して性的嫌がらせなどを行った。また、兵士が幼い我が子を木に叩き付けて殺したり、子供や老親を燃えさかる家に投げ込み焼き殺したり、夫を銃殺したなどの証言が寄せられた[130]。
12月5日、国連人権理事会で、ミャンマーによるロヒンギャへの「組織的かつ大規模な人権侵害」を「強く非難」し、ミャンマーに独立調査団への協力を呼びかける内容の決議が賛成33、反対3、棄権9で採択された[131][132]。反対は中国、フィリピン、ブルンジ。棄権は日本、インド、コンゴ、エクアドル、エチオピア、ケニア、モンゴル、南アフリカ、ベネズエラであった[133]。
12月7日、『ニューライト・オブ・ミャンマー』は、人権理事会の決議を非難するウ・ヒテン・リン常任代表者の声明を報じた[134][135]。
声明の主な内容は以下の通り。
12月11日、AP通信はバングラデシュのロヒンギャ難民29人(全て女性)にインタビューした結果、ミャンマー治安部隊による強姦は「徹底的で組織的」に行われたと報じた。ミャンマー当局は取材に応じなかったが、これまで強姦や虐殺などの指摘を全て虚報と主張している[136]。
12月13日、ミャンマーは、ラカイン州で取材していたロイターの記者2人と、協力者の警察官2人を逮捕した。被疑はイギリス植民地時代に制定された国家機密法違反で、ミャンマー情報省は「(記者は)海外メディアと共有する目的で情報を不正入手した」と声明を出した[137][138]。
12月17日、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、衛星画像の分析の結果、「ビルマ」治安部隊によるロヒンギャ集落への放火が、12月になっても続いていると発表した[139]。それによると、10月以降に40の村が被災し、「ビルマ」とバングラデシュの合意が成立した11月23日以降に限っても、4の村が被災していた。その上で、「ビルマ」政府が国際社会に安全な難民帰還を約束していることに対して「宣伝工作にすぎない」と批判した[140]。
12月18日、ゼイド・ラアド・アル・フセイン国連人権高等弁務官はフランス通信の取材に対し、ロヒンギャへの弾圧は「ジェノサイド(大量虐殺)」の可能性があると述べた。武装勢力に対する適切な取り締まりを主張するミャンマー政府に対し、ゼイドは2016年の時点で30万人のロヒンギャがバングラデシュに逃れていたことを指摘し、「ミャンマー政府の主張とは合致しないのではないか」との見解を示した[141]。同日、フセイン国連人権高等弁務官はBBCの取材に対し、ミャンマー側の行動は「ものすごくよく練られて計画されたものなのではないか、と我々は感じ始めた」と述べた。またBBCは、ロヒンギャ難民らの証言として、ミャンマーが昨年ラカイン州で組織した武装警察が、ロヒンギャ集落襲撃の実行犯になったと報じた[142]。
12月19日、世界保健機関(WHO)は、バングラデシュのロヒンギャ難民キャンプでジフテリアが流行しており、死者が21人に達したと発表した[143]。WHOは12月17日より、2度目の予防接種を開始している。
12月20日、国連によると、ミャンマーは李亮喜・国連特別報告者の入国拒否と非協力を通告した。李は声明で「ミャンマー政府の決定に失望している。大変なことが起きているに違いない」と非難した。ミャンマーは、李が7月の訪緬で「以前の(軍事)政権の手法が今も用いられている」などと批判したことが、「偏っており不公正だ」として、協力取りやめの理由に挙げた。
12月21日、アメリカ財務省は、大統領令に基づき、ミャンマー国軍のマウンマウンソー少将個人に対し、国内資産凍結などの制裁を発表した。証言によると、8月の「掃討作戦」でマウンマウンソーの率いた治安部隊が、ロヒンギャを無差別に殺害したほか、集落への放火を行ったという[144]。
12月24日、国連総会で、イスラム協力機構(OIC)の提出した、ミャンマー政府にロヒンギャ難民の全帰還や完全な市民権の付与、援助関係者の接触容認などを求める決議が賛成122、反対10、棄権24で採択された[145]。反対はミャンマー、中国、ロシア、ベラルーシ、カンボジア、ベトナム、ラオス、フィリピン、シリア、ジンバブエ。棄権は日本、インド、タイ、ネパール、ブータン、シンガポール、パプアニューギニア、カメルーン、南アフリカ、ドミニカ共和国、ベネズエラなどであった。
12月14日、国境なき医師団は8月25日から9月24日までの1ヶ月間に、少なくとも9000人のロヒンギャが死亡し、そのうちの71.7%、6700人が殺害されたとする調査結果を発表した。難民2434世帯・11426人への聞き取り調査からの推計で、死因の69%は銃撃、9%は焼死、5%は殴打によるという。5歳未満の子どもでは、59%超が銃撃、15%が自宅で焼死し、7%が殴打、2%は地雷が死因という。また、ミャンマーから脱出できなかった世帯は調査対象に含まれておらず、家ごと焼き殺され一家全滅した例もあるとして、実際の死亡者はさらに上回っている可能性が高いとした[146]。ミャンマー政府は、国境なき医師団の報告について「何もコメントすることはない」とした[147]。ミャンマー政府は、全体の死者は432人、内訳は「ベンガル人テロリスト」387人、治安部隊15人、市民は「ベンガル人」7人、ヒンドゥー教徒7人、ラカイン人仏教徒16人の計30人としている[148]。
2018年5月22日、アムネスティ・インターナショナルは、ARSAが最大で99人のヒンドゥー教徒を虐殺したとする報告書を発表した。ARSAは報告書の内容を否定している[149]。
8月27日、国際連合人権理事会(UNHRC)は、ミャンマー調査団の報告書を発表した。それによると、「ラカイン州のイスラム教徒に人権はない」と指摘し、2017年からの掃討作戦は「即時で、残忍で、(武装勢力の脅威に対し)不均衡」であり、少なくとも1万人が殺害され、ロヒンギャ居住地の4割が焼き払われたとした。また、治安部隊や他民族が、ロヒンギャ居住地への「再定住」を進めていると指摘した。ロヒンギャに対する差別発言、ヘイトスピーチへのミャンマー政府の対応は不十分であり、オンラインには差別発言が蔓延した。ソーシャルメディアでは、Facebookが憎悪の拡散に使われ、Facebook側の対策は後手に回った。一方、ARSAは、数十人のラカイン人、最大で100人のヒンドゥー教徒を殺害した可能性があるとした。総体として、ミャンマー治安部隊の行動はARSAを対象としたものではなく、「ベンガル人」全体を標的としたジェノサイドであり、人道に対する罪であり、国際刑事裁判所あるいは国際特別刑事裁判所への訴追が必要と結論付けた[150][151]。ミャンマー政府のザウ・ハティ報道官は、1.政府は人権侵害を厳しく取り締まっており、また調査団自体を入国を含めて認めていないので、人権理事会の決議にも同意しない。 2.国連や他の国際機関の主張は虚偽であり、それを立証するために独立した調査委員会を組織した。また訴訟も検討している。 3.政府は安全保障と法の支配・国民の利益を守るためにサイバー法の制定を努力すべきである。として、報告書を全て虚偽とする見解を示した[152]。また報告書で名指しされたFacebookは、ミンアウンフラインら軍幹部18人のアカウントを削除したが、ミャンマー国内で激しい反発を受け、ザウ・ハティ報道官も「なぜ削除したのか多くの疑問がある」と言及した[153]。
8月28日、国連安保理においてミャンマー大使は、ARSAが「250人以上の非ムスリム少数民族および、100人以上のヒンドゥー教徒を虐殺」したと主張し、人道的問題は全てARSAおよび、それを支援した外国のテロ組織に責任があるとする見解を示した。その上で、「(「ベンガル人」の)無実の民間人」難民の帰還については計画を進めており、「ミャンマー政府と人民」による遂行を強調した上で、国際社会の協力を求めた[154]。
8月31日、ロイターは、ミャンマー軍広報部が7月に出版した『ミャンマー政治と国軍(原題:Myanmar Politics and the Tatmadaw: Part I)』で写真の捏造があると報じた。同書は「ベンガル人」の悪事をアピールする内容であった。キャプションに「ベンガル人は無残にも地元の民族を殺した」とある写真は、実際は1971年、バングラデシュのダッカで、パキスタン側の人物がベンガル人を殺害した写真だった。また、キャプションに「ベンガル人は英国によって(ミャンマーに)侵入した」とある写真は、実際は1996年、ルワンダ虐殺に際したフツ族難民のカラー写真を、白黒に加工して古びて見せたものだった[155]。版元は9月4日までに、「間違った写真が印刷されていた」ことを認め、謝罪した[156]。
9月、国連人権理事会の調査団がジェノサイドの疑いに言及した決議を採択。
2016年10月より、新たに難民となりバングラデシュに逃れたロヒンギャは、2017年6月15日までに7万5千人に達した。さらに、8月25日の武力衝突から2018年8月までの間だけで、72万5千人に達した。以前の難民を含めると、90万人以上が難民となっている[157][158][29][159][160][161][132][139][151]。
11月、ミャンマーおよびバングラデシュ両政府が帰還開始を発表するが、希望者が現われなかった。
2019年11月、イスラム協力機構を代表してガンビアが、ミャンマーをジェノサイドをしたとして国際司法裁判所に訴える。
2020年1月、国際司法裁判所は、ミャンマーに迫害防止措置などをもとめる仮保全措置を命令した。
バングラデシュは、ミャンマーに強制送還を要求しているが、ロヒンギャを自国民とは認めないミャンマー政府は、これを拒んでいる。バングラデシュは、ロヒンギャをミャンマーへの強制送還前提でガンジス川河口の無人島バシャンチャール島(テンガルチャール島)に隔離しようとして、批判を受けた[162]。バングラデシュのアブル・ハッサン・マームード・アリ外相は、6月15日に国会で「ラカインの人々」が犯罪を働き、「国家安全保障上の懸念」となっていると答弁した[163]。10月5日、バングラデシュは8月以降の大量の難民流入を受け、80万人超を収容できる巨大キャンプの設置を発表した。完成次第、すべての難民を移す方針である[164]。
10月24日、バングラデシュのカーン内相は、ミャンマーのチョー・スエ内相と会談し、ロヒンギャのミャンマー帰還手続きなどを協議した。ミャンマー側は、自国の記録照合で住民確認が必要と主張し、受入は1日100~150人程度としたが、早期帰還を求めるバングラデシュとは、条件が折り合わなかった[165]。
11月23日、バングラデシュとミャンマーはロヒンギャのミャンマー帰還について合意書に署名した。しかし、帰還の具体的手続きや期限は合意に至らず、さらに交渉を続けることになった[166]。
バングラデシュは、9月より「治安上の理由」から難民用の身分証発行を始めた。しかし「ロヒンギャ」の明記がなく、「ミャンマー国民の登録証」と表記されていることに反発し、受け取りを拒否するロヒンギャ難民が相次いでいるという[167]。
2017年8月4日、日本財団の招きで来日したミンアウンフライン軍司令官が、安倍晋三首相を表敬訪問した。日緬防衛協力などを会談し、「国民和解や少数民族支援」にも触れたが、ロヒンギャについて特段の言及は無かった[168]。
8月29日、外務報道官は武装勢力による治安部隊への襲撃を「強く非難」した。その一方、アナン委員長らによるラカイン州助言委員会の最終報告書の勧告履行へのミャンマー政府の取り組みを「支援」すると表明した[169]。
9月19日、河野太郎外相は、改めて武装勢力による襲撃を「強く非難」した。一方で人道状況や住民殺害の疑惑、この時点で40万人にのぼる難民流出に「深刻な懸念」を表明した[170]。
11月14日、安倍首相はアウンサンスーチーと会談し、「深刻な懸念」を伝え、治安回復や避難民帰還の実現を求めた[171]。
11月16日、日本政府はバングラデシュへの避難民支援として、1500万ドル(今年度支出レートで16億5000万円)の緊急資金協力を決定した[172]。
11月18日より11月20日にかけ、河野外相はバングラデシュを訪問した。11月19日、河野外相はバングラデシュのアブル・ハッサン・マームード・アリ外相と会談し、バングラデシュ政府の難民受入を高く評価すると共に、日本政府として支援をして行くことを表明した[173]。同日、河野外相はガブリエル・ドイツ副首相兼外相、モゲリーニEU外務・安全保障政策上級代表、ヴァルストローム・スウェーデン外務大臣と共にロヒンギャ避難民キャンプを視察した[174]。また、河野は『デイリー・スター』紙への取材に対し、1.武装勢力を「強く非難」し、2.ラカイン州の人権状況や60万に上る難民流出などを「深刻に懸念」し、3.バングラデシュの取り組みに対し、合計1860万ドルの支援を行うことを改めて述べた[175][176]。
11月20日、中根一幸外務副大臣は、ミンアウンフラインと会談した。中根は、ミャンマー国軍の人権侵害疑惑について、必要があれば処罰を行うよう求めた。ミンアウンフラインは、「バングラデシュに流出した避難民」について、「審査の上で受け入れる用意がある」と述べた[177]。
12月14日、安倍首相は訪日したティン・チョウ・ミャンマー大統領と会談した。安倍首相の発言は以下の通りである。1.ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)支援を引き続き進める。2.「自由で開かれたインド太平洋戦略」の下、官民合わせて8千億円の資金投入、文化交流の推進などを行う。3.ラカイン州の人権・人道状況を「懸念」している。避難民帰還に関するミャンマー・バングラデシュ合意を歓迎する[178]。
2021年2月1日、国軍がクーデターを起こして、スーチーが拘束された際、難民キャンプに住むロヒンギャの間からは歓喜の声が上がったのだという[179]。
その後、亡命した元NLD議員は、臨時政府に相当する「連邦議会代表委員会(CRPH)」[180]、さらには「国民統一政府(NUG)」を設立した。そして2021年6月3日、NUGはロヒンギャに市民権を付与するという声明を発表。しかし、この市民権の内容は不明瞭であり、ロヒンギャの識者の間からも苦し紛れの策ではないかという疑義が呈された[181]。2023年7月、ロヒンギャ男性のアウンチョーモーがNUG人権省の副大臣に任命されたが[182]、2024年3月、NUGラジオがロヒンギャを「ベンガリー」呼ばわりし、批判を受けた後も「最近軍事訓練を受けた人々」としか訂正せず、頑としてロヒンギャの名称を使わなかったという事態が発生。ロヒンギャに市民権を認めるとした方針と矛盾するのではないかと批判された[183]。
ラカイン州では、2023年11月13日にラカイン族の武装勢力・アラカン軍(AA)が停戦合意を破ったことにより、国軍との戦闘が再開した。その際、アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)、ロヒンギャ連帯機構(RSO)、アラカン・ロヒンギャ軍(ARA)といったロヒンギャの武装組織は国軍の指揮下に入ってAAと戦った。ロヒンギャ危機のきっかけを作ったARSAが国軍の指揮下にあるというのは、かなり奇妙だが、住民の間ではARSAは国軍に吸収されたか、もともと国軍によって創設された組織だと噂されている[184]。
ARSAとRSOはコックスバザールにあるロヒンギャ難民キャンプで激しく支配権を争っており、現在はRSOが優勢で、ロヒンギャの若者たちを強制徴兵して、国軍に送っている。AAはバングラデシュ政府がRSOを支援していると非難している。20年間武装闘争をしていなかったRSOが突然台頭してくるのは、たしかに奇妙ではある[185]。
AAは報復としてロヒンギャを虐殺している疑惑が持たれている。
国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、関係諸国にロヒンギャ難民の保護を求めている。しかしバングラデシュでは、ロヒンギャは難民や不法移民と扱われている[186]。またASEAN加盟国のうち難民条約を批准しているのはカンボジアとフィリピンだけであり、他のASEAN加盟国では不法入国者として取り締まりの対象になっている。
バングラデシュには2023年の時点で約100万人のロヒンギャが住んでいると言われている[187]。1978年、1991年の大量流出の際、バングラデシュ政府はロヒンギャを「難民」として扱い、ミャンマー政府との合意の下、大半のロヒンギャ難民をミャンマーへ帰還させた。1992年に難民の地位の付与が停止され、その後、バングラデシュに流入してきたロヒンギャは不法移民として扱われることになった。バングラデシュ政府はロヒンギャの帰還を進めつつ、バシャンチャール島に避難民収容施設を建設して、ロヒンギャの人々の移住を進めている[188]。しかし2022年ロシアのウクライナ侵攻後、ロヒンギャへの国際関心が低下し、支援が減少したことで、バングラデシュ当局は徐々にロヒンギャに対する管理を強化し[189]、移動制限の強化、キャンプ周辺の鉄条網設置、コミュニティ主催の学校の取締り、キャンプ内の市場などの破壊を行っていると伝えられている[190]。
マレーシアには、1991年の「清潔で美しい国作戦(Operation Pyi Thaya)」を機にミャンマーから逃れてきたロヒンギャの人々がそのまま住み着いており、2016年の時点でUNHCRによれば13万7千人、実際のはその倍近い人々が住んでいると言われている[191]。2006年頃からアンダマン海を渡り、タイ経由でマレーシアを目指すロヒンギャの人々が急増した。ただ2020年にムヒディン首相は「これ以上の難民は受け入れられない」と述べている[192]。2024年2月には入管の収容施設で暴動が起こり、約100人のロヒンギャが脱走する事件があった[193]。
インドネシアでは、2015年5月、約2千人のロヒンギャがボートでアチェ州に漂着[194]。当初、アチェ州の住民はロヒンギャに同情的で[195]、州内に建設された難民キャンプに収容された。ただキャンプに収容されたロヒンギャの人々は、その後さまざまな伝手を頼って、より賃金の高いマレーシアに渡る者が多かった[191]。2021年クーデター以降、ミャンマーの治安・経済状況の悪化、コックスバザールの難民キャンプの治安悪化を受け、アチェ州に漂着するロヒンギャが急増[196]。住民の間から受け入れを拒否する動きが出始めている[197][198]。
タイは、ロヒンギャの人々がマレーシアへ渡る中継地点であり、タイ当局に収容されたり、追い返されたりしている。またタイの入管当局者と業者が共謀するロヒンギャの人身売買が大きな問題となっている[199]。
パキスタンは英領インドの一部であり、パキスタン独立時はバングラデシュは東パキスタンだったことから、従来よりロヒンギャとの関係が深く、現在25万人ほどのロヒンギャがカラチ中心にパキスタンに住んでいると言われている。しかしその大半が身分証明書を所持していないため就学・就労に制限があり、貧しい劣悪な生活を余儀なくされている。そのような境遇から逃れるために過激派に身を投じる若者もいるのだという[200]。
サウジアラビアには約25万人、アラブ首長国連邦(UAE)には約1万人のロヒンギャが住んでいると言われている[201]。
日本政府はロヒンギャ難民支援のためにさまざまな人道支援を行っている[202][203][204]。他にも日本財団が人道支援を行っている他、ロヒンギャ難民を収容したバサンチャール島に職業訓練学校を建設している[205]。
アウンサンスーチー
わかりません[206]。 (2012年6月、ヨーロッパでの公開イベントで、もっとも迫害され弱い立場にあるロヒンギャは、ミャンマーの国民であると思うかと尋ねられた時の返事)
イエミンアウン(Ye Myint Aung) 香港駐在ミャンマー総領事。後に国連大使。
現実には、ロヒンギャは「ミャンマー人」でもなければ、ミャンマーの民族でもありません。写真を見ると、彼らの肌は「こげ茶色」です。ミャンマー人の肌は白く、柔らかく、見た目も良いのですが…彼らは鬼のように醜いのです。 (2009年2月、他の公使に宛てた書簡の中で)
コーコージー 88年世代の民主化活動家。
この委員会がこれらのベンガル人に関して「人権」という言葉を使うなら、私はこの委員会を辞任します[206]。 (2012年、ムスリムと仏教徒との衝突を解決するために設けられたラカイン州調査委員会のメンバーだった氏が、他のメンバーと電話で会話した時の発言)
ミンコーナイン 88年世代の民主化活動家。
(EUがロヒンギャ問題を強調する理由は) ムスリム側に立ってイメージを変える意図があるからだ[207]。
アウンミョーミン ビルマ人権教育研究所(HREIB)の設立者。現国民統一政府(NUG)人権大臣。
このような微妙な状況で「民族浄化」という言葉を使うのは受け入れられません。民族浄化とは他の民族を排除することを意味します。これはラカイン州には当てはまりません[206]。 (2017年のロヒンギャ危機に関する見解)
ミョーミン(Myo Myint)博士 コーネル大学歴史学博士、元マンダレー大学歴史学講師、元内務省宗教局長。
彼ら(バングラデシュ全土から来た「ベンガル人」)はすでにここにいる。簡単に追い出すことはできない。どうすればいい?[206] (電話での会話)
インインヌエ(Yin Yin Nwe)博士 ケンブリッジ大学地質学博士、ネウィンの義理の娘、テイン・セインの宝石顧問。彼女はこの発言で有名人になった。
教育を受けていないベンガル人女性は、狂ったように子供を産みます。平均して、女性1人は10~12人の子供を産みますが、男性は妻を1人以上持つことが許されています。私は、子供は1人しかいないと伝えましたが、それでも教育費はかなり高額です。この人口爆発により、現在、ブティダウンとマウンドーの人口の90%以上はベンガル人で、ラカイン族とビルマ族はわずか5~6%です。ですから、ここでは誰が多数派で誰が少数派なのか、自分で考えてみてください。だからこそ、私たちは人口抑制を提案したのです[206]。
ザガナー(Zarganar) 国民的人気のあるコメディアンで、政府批判で4度の服役歴がある。
これは捏造された報告書だ[206]。 (ヒューマン・ライツ・ウォッチによる2012年のムスリム・仏教徒間の衝突に関する報告書[208]について)
アウンミャーチョー(Aung Mya Kyaw) ラカイン民族発展党選出のラカイン州議会議員。
これは不公平です。私たちの党は声明をまったく受け入れません。ラカイン州の地元住民は皆、事件のすべてを知っています。暴力は人種や宗教から生じたものではありません。領土を奪おうとする者と、その領土を守ろうとする者の間で起こったのです。民族浄化はこの問題の本質ではありません[206]。 (ヒューマン・ライツ・ウォッチによる2012年のムスリム・仏教徒間の衝突に関する報告書[208]について)
エイマウン(Aye Maung) ラカイン民族開発党の議長。
私たちはラカイン州の村々を(ベンガル以前の時代に)復元しなければなりません。イスラエルからインスピレーションを得て、イスラエルをモデルに(ラカイン州をラカイン州だけのために)復元する必要があります[206]。
ウィンミャイン(Win Myaing) ラカイン州政府報道官。
どうして民族浄化になるのか?彼らは民族ではない[206]。
難民条約加盟国である日本でもロヒンギャが難民申請しているが、入国管理局によって退去を強制させられている事例がある。日本の法廷で争われている[209]とおり、ロヒンギャ難民の問題には不可解な点が多く認められ、加えて「難民条約」の定義では解決し難いため、難民認定は低調な数字のままである。
在日ビルマロヒンギャ協会によると、2015年6月現在、日本には約230人のロヒンギャが生活している。そのうち約200人が、群馬県館林市に集中している[210]。また、日本政府は、ロヒンギャをミャンマー国籍として扱っているが、国籍を剥奪されたためにそのほとんどが無国籍である実態とかけ離れた国籍認定が懸念されている[211]。2017年8月4日、国連難民高等弁務官事務所のダーク・ヘベカー駐日代表が館林市を訪れ、ロヒンギャの現状を視察した。ヘベカーは、NPO法人が行うロヒンギャの子供たちの学習支援教室などを見学し、「素晴らしいプロジェクトで、学ぶ意欲を感じた」と評価した[212][213]。
日本ロヒンギャ支援ネットワークのゾーミントゥ事務局長は、「世界に向かってミャンマー軍が何をやっているか語ってほしい」とアウンサンスーチーに呼びかけた[214]。
2017年9月には、日本赤十字社の医療チームがバングラデシュの避難キャンプに派遣された[17]。9月8日、東京・品川のミャンマー大使館に、ロヒンギャら約150人が抗議デモを行った[215]。
その一方で、在日ミャンマー人社会との対立は深まっている。1988年9月に在日ミャンマー人協会が設立された当初は、ロヒンギャが協会書記長を務めたことがあるなど、表だった排斥は見られなかった。しかし2000年以降、ミャンマーの政情が落ち着くと、在日ミャンマー人の間に「ロヒンギャ(「ベンガル人」)はミャンマー人ではない」という認識が浸透し、表だった迫害こそ起きていないが、ロヒンギャは排除されるようになった[216]。2015年には、日本放送協会の(「ベンガル人」に対する)ロヒンギャ表記への抗議声明を、複数の在日ミャンマー人団体が出した[217]。
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