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ユダヤ系アメリカ人のスタンダップ・コメディアン ウィキペディアから
レニー・ブルース(Lenny Bruce, 1925年10月13日 - 1966年8月3日)は、ユダヤ系アメリカ人のスタンダップ・コメディアンである。その活動はアメリカにおける言論の自由の象徴となり、後世の人物に多大な影響を与えた。
レニー・ブルース | |
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1961年 | |
生誕 |
Leonard Alfred Schneider 1925年10月13日 アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ミネオラ |
死没 |
1966年8月3日 (40歳没) アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ハリウッド |
死因 | オーバードース |
墓地 | エデン・メモリアルパーク墓地 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
活動期間 | 1947年–1966年 |
コメディアン歴 | |
媒体 | スタンダップ、テレビ、本 |
母校 | ウェリントン高校中退[1] |
ジャンル | 風刺、政治風刺 (en) 、ブラックジョーク、ブルーコメディ (en) |
主題 | アメリカ文化、アメリカ政治、人種関係、宗教、人間の性、わいせつ、ポップカルチャー |
配偶者 | ハニー・ブルース [2](m. 1951; div. 1957) |
子供 | キティ・ブルース(娘) |
親 | サリー・マー(母) |
主な著作・役 | The Lenny Bruce Originals The Carnegie Hall Concert Let the Buyer Beware How to Talk Dirty and Influence People(やつらを喋りたおせ! レニー・ブルース自伝) |
1950年代後半から1960年代前半にかけて、それまでタブーとされていた政治、宗教、人種差別、同性愛、中絶、セックス、麻薬、広告批判、貧困などアメリカ社会の抱える矛盾をテーマに過激なトークショーを行ない人気を博した[3][4]。
言動を問題視した当局に目をつけられた1961年以降、公然猥褻を理由に度々逮捕され、1964年有罪判決を受ける。
弾圧により活動を制限され経済的に困窮した1966年8月3日、自宅の差し押さえ通知を受けた当日、急性モルヒネ中毒で死去した。享年40歳。
ニューヨーク州ミネオラの貧民街でユダヤ系イギリス人で靴商人の父マイロン・シュナイダーとクイーンズ出身の母サリー・マーの間に生まれる。5歳の時に両親が離婚し、芸人に転身した母親や親戚に育てられる。16歳で家を出て、ロングアイランドの農場で働く[5]。
1942年、海軍に入隊し、ブルックリン乗務員として第二次世界大戦に派遣される[6]。その際、「同性愛が発覚した場合は除隊」になる当時の規定[注釈 1]を利用し、女装をして同性愛者を装い、医師の認定を受けて除隊が認められた[7]。
1946年、退役し、母とニューヨークで生活をする。
1947年、ブルースに改姓し、母の芸風を模倣[8]したコメディアンとしてデビューをする。
1948年、ラジオ番組『アーサー・ゴッドフリー・タレント・スカウト』で映画スターのモノマネを披露して優勝する。
1951年、ストリップ劇場の仕事で知り合ったアーカンソー州出身のストリッパーハニー・ハーロウと結婚し、夫婦でのステージ活動を始める。同年、フロリダ州マイアミで司祭と偽り寄付を募った詐欺行為で逮捕される[注釈 2]。またピッツバーグで自動車事故を起こし、夫婦ともに重傷を負っている[注釈 3]。
1953年、ロサンゼルスに移り住み、脚本を担当した映画『Dance Hall Racket』(フィル・タッカー監督)に妻と共に出演する。
1954年、『Dream Follies』(フィル・タッカー監督)、『The Rocket Man』(アラン・ルドルフの父であるオスカー・ルドルフ監督[9])の脚本を担当する。
1955年、短編映画『The Leather Jacket』を脚本し、母と共演する。娘キティが誕生する。
歌手・女優のアニー・ロスと恋に落ちる。
1957年1月、離婚。以降、風刺芸の先駆者で友人のモート・サールに影響され[10]、芸風が社会風刺色を強めていく[11][注釈 4]。
1958年頃から「シック・コメディ」と名付けられるほど社会的評価の低かった風刺芸で徐々に人気を博していく。但し彼自身はシック・コメディの名称に異を唱えた[12]。
1959年4月、人気番組『スティーブ・アレン・ショー』に出演し、全国区の人気を得る。その際、司会のスティーブ・アレンに「私たちの時代の最もショッキングなコメディアン」と紹介された。
1961年2月、カーネギー・ホールで公演を行う。9月、フィラデルフィアにて麻薬所持で逮捕される[3]。
同年10月4日、サンフランシスコのナイトクラブ「Jazz Workshop」での「コックサッカー(Cocksucker)」という性的隠語の使用により公然猥褻罪で逮捕される。弁護団が組織され、アメリカ合衆国憲法修正第1条で保証された言論の自由を巡る裁判が行われる。翌年に無罪を勝ち取るが、これ以降警察によるショーの監視が続き、2年間に計15回逮捕されている[3]。その後、法律を勉強し弁護人を解雇して自ら裁判での弁護を担当するようになる[13]。
1962年、イギリスのコメディアンのピーター・クックに招かれ、クックとニコラス・ルアードが設立したナイトクラブ「The Establishment」の舞台に立つ。9月、プロモーターのリー・ゴードンに招かれてオーストラリア・シドニーで公演を行うが、卑猥な内容やナチス式敬礼などの不適切な言動が翌日の豪デイリー・ミラーで報道され問題となり、2週間の予定だった公演が初日のみで中止になる[14]。この時、再入国禁止処分を受けたとの伝聞があるが、実際には主催者やクラブ経営者が規制されたのみでレニー自身には罰則は課せられておらず、数日後シドニーの繁華街キングス・クロスで舞台に上がっている[15][注釈 5]。
この時期、10月に開会した第2回バチカン公会議の影響でカトリック・ジョークが流行し、彼も多用するようになる[16]。
1963年1月、ロサンゼルスにて再び麻薬所持で逮捕される。4月、処方箋を利用し合法的に麻薬を入手していたイギリスへの再入国禁止措置が取られる[17][18]。
1964年4月、ニューヨーク・グリニッジ・ビレッジのナイトクラブ「カフェ・オ・ゴー・ゴー(Cafe au Go Go)」での発言によりクラブ経営者ハワード・ソロモンとともに公然猥褻罪で逮捕される。ソール・ベロー、アーサー・ミラー、ノーマン・メイラー、ゴア・ヴィダル、ウディ・アレン、ボブ・ディラン、アレン・ギンズバーグ、スーザン・ソンタグ、ジュールズ・ファイファーら各界の著名人による請願運動が起きたが、11月に懲役4ヶ月の有罪判決を受け、控訴審を起こす。
彼を起用したナイトクラブの酒類販売免許取り消しなどの弾圧が強まった結果、仕事場を失い経済的に困窮し、1965年秋に破産宣告を受ける[3][13]。前衛雑誌『ザ・リアリスト』編集長ポール・クラスナーの支援で自伝を出版し、12月にはフランク・ザッパらの支援によりバークレー・コミュニティ・シアターでトークショーを開いた。
1966年6月25日、サンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムで最後のショーを行う。この頃、交際していたコメディアンのロータス・ウェインストックと婚約している[19]。
同年8月3日、ハリウッド・ヒルズの自宅の差し押さえ通知を受けた後、モルヒネを過剰摂取し死亡する[4]。バスルームの床に裸で仰向けになった遺体の腕には注射針が刺さったままであった。部屋にあったタイプライターに「修正第4条を妨害する陰謀…(Conspiracy to interfere with the fourth amendment const…)」などと書かれた文章が残されており[17]、警察は偶発的な薬物中毒死と公式発表した。フィル・スペクターが費用を出し、ロサンゼルスのユダヤ人墓地「エデンメモリアルパーク墓地」で葬儀が行われ埋葬された[20]。
2003年12月、ロビン・ウィリアムズ、スマザーズ・ブラザーズ、マーガレット・チョーらの請願によりジョージ・パタキニューヨーク州知事が生前の有罪判決に対して恩赦を与える[21][22]。
演劇
映画
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