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ダトゥ・モクタル・ダハリ(マレー語: Dato' Mokhtar Dahari、1953年11月13日 - 1991年7月11日)は、マレーシアの元サッカー選手、元サッカー指導者。元マレーシア代表。ポジションはFW。
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名前 | ||||||
本名 | モハマド・モクタル・ビン・ダハリ | |||||
愛称 | スーパーモク | |||||
ラテン文字 | Mokhtar Dahari | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | マレーシア | |||||
生年月日 | 1953年11月13日 | |||||
出身地 | マラヤ連邦セランゴール州セタパク | |||||
没年月日 | 1991年7月11日(37歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1970-1971 | セランゴールFA | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1972-1987 | セランゴールFA | 375 | (177) | |||
1988-1990 | RHBバンク | 13 | (20) | |||
代表歴2 | ||||||
1972-1985 | マレーシア | 167 | (125) | |||
監督歴 | ||||||
セランゴールFA | ||||||
1988-1990 | RHBバンク | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 2. 2014年12月11日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
1970年代から1980年代にかけてマレーシア代表として125得点を獲得した伝説のストライカーであり[1]、その卓越した強さと技術で生涯を通じて得点を量産し、「スーパーモク」の愛称で親しまれた[2]。強さや技術を持ち合わせていた彼であるが、特にそのスピードで有名であった。観衆による「スーパーモク」の合唱も非常に有名であり、多くの若い世代が彼を憧れの選手に挙げ、彼の動きを真似した。選手としてはセランゴールFAに所属し、ボカ・ジュニアーズとの親善試合の前にディエゴ・マラドーナと握手を交わした選手である。
イギリスの一部であったマラヤ連邦のセランゴール州セタパク(現在はクアラルンプールの一部)に1953年11月13日に生まれた。父はタンクローリーの運転手であり、貧しい家庭であった。11歳の時にクアラルンプールのカンプン・パンダンに引っ越した。幼い頃からサッカーに興味を示し、学校でサッカーをしていた他、後にセランゴールFAの下部組織でサッカーをするようになった。
セランゴールFAで初めて出場したのはバーンリー・ユースカップであり、この大会でセランゴールFAは優勝した。その後、セランゴールFAに所属して出場し続けられるかを尋ねられたと云う。セランゴールFAのトップチームに昇格した初シーズンには得点王に輝いた。その後もマレーシアカップを中心に多くのタイトルを同クラブに齎し、マレーシアカップは彼の在籍中に10回制し、合計で177得点をクラブに齎した。
1986年5月のマレーシアカップ優勝を以て引退したものの、1987年1月にもう1シーズンだけプレイする事を発表した。
19歳にしてマレーシア代表で初出場を果たした。その初試合は1972年に行われたスリランカ代表との一戦であった。1974年にはアジア競技大会で銅メダルを獲得、その後の東南アジア競技大会では1977年、1979年共に金メダルを獲得した。
マレーシアリーグXIとしては1975年にアーセナルFCと戦い、2得点を叩きこみ2-0で勝利、イングランドのトップクラブからも注目を集めた。更に世界有数のクラブであるレアル・マドリードからオファーが来たものの、マレーシアとセランゴールFAに対する愛着心からこのオファーを蹴った[3][4]。その能力から23歳にしてワールドサッカー誌にアジア一のストライカーと称された[5][6]。
1978年にイングランドB代表と戦った時はハーフウェーラインからシュートを打ち、ジョー・コリガンを抜けてゴールに吸い込ませた[7]。また、このイングランドB代表のツアーが終わった後、ゴードン・ヒルも雑誌で彼を「ヒーロー・ダハリ」と褒め称えた[8]。
怪我のために選手を引退し、地元のチームでサッカー指導者となり、かつてのチームメイトであるレドゥアン・アブドゥッラーには自伝を書かないのか尋ねられたと云う。地元のチームであるRHBバンクでは選手兼任監督を務めた。また、RHBバンクのみならず、セランゴールFAにも顔を出して指導していた。
サッカー選手になる前はバドミントン、セパタクロー、ホッケー等をしていた。昼間はセランゴール州開発公社で働き、夜はサッカーをする生活であったが、RHB銀行の方が給与が良かったため転職した。
彼は既婚者であり、妻とは友人を経由して知り合った。10年の交際を経て結婚した彼には2人の娘と1人の息子がいる[9]。
喉の不調を訴えるようになり、病院で診察を受けた。筋萎縮性側索硬化症と診断されたが、その容体は彼自身と妻にのみ知らされた。病状の改善の為にロンドンへも渡った。
その後3年の闘病を経て、1991年7月11日、37歳でスバン・ジャヤ・メディカルセンターで没した。報道[要出典]によると死の直前には筋ジストロフィーに苦しんでいたと云う。
死因については長らく明らかにされていなかったが、2010年8月30日にナショナルジオグラフィックチャンネルで放送された「スーパーモクの語られざる真実」と云うドキュメンタリー番組で彼の生前の友人や家族の協力を経て、その生涯と共に明らかにされた[10]。遺体はセランゴール州のタマン・ケラマッ・ペルマイ・イスラム霊園に埋葬されている。
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