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ベネデット・クローチェ(Benedetto Croce、1866年2月25日 - 1952年11月20日)は、イタリアの哲学者・歴史学者。ヘーゲルの対立の論理に代えるに判別の論理をもってする独自の哲学を確立し、哲学と歴史叙述を一体化しようとした。イタリアの精神界のみならず、欧米の思想界に大きな影響を与えた[1]。
ペスカッセーロリに生まれた。1883年7月28日、イスキアでの休暇中、カサミッチョラの地震で両親と妹を失い、生き残った弟と共にローマの親戚シルヴィオ・スパヴェンタの家へ転居した。ローマではサピエンツァ大学に通い、1884年、アントニオ・ラブリオーラと知り合った。1886年、ナポリへ転居、ジュスティーノ・フォルトゥナートやサルヴァトーレ・ディ・ジャーコモと知り合った。
1901年、出版人ジョヴァンニ・ラテルツァと出会い、以後、主要著作はラテルツァ出版社から刊行される。1903年、ジョヴァンニ・ジェンティーレとともに『クリティカ』誌を創刊し、反アカデミズム・反実証主義の立場をとり、精神哲学体系諸著作を次々と発表した。1913年、ジュゼッペ・プレッツォリーニの雑誌『ヴォーチェ』でジェンティーレと哲学論争をおこなう。政治活動としては、1910年に上院議員に選出され、戦間期においては、ジョヴァンニ・ジョリッティ内閣の文部大臣をつとめた。ファシズムが台頭するに及んで、これを支持する姿勢もみせ、1924年、統一社会党のジャコモ・マッテオッティが暗殺されたときも、クローチェは上院における信任投票でベニート・ムッソリーニの政府に信任票を投じている。1925年ころより、クローチェは反ファシストの立場に転じ、同年5月1日には『知識人の反ファシズム宣言』を起草し、その後は一貫してファシズム批判を続けた。ムッソリーニ政権下でも『クリティカ』誌を発刊し続け、ファシズムを攻撃した。1929年にムッソリーニとローマ教皇が結んだ政教和約(ラテラノ条約)に反対し、議員を辞職した。
主著は『表現の学および一般言語学としての美学(L'Estetica come scienza dell'espressione e linguistica generale)』(1902年)、『歴史叙述の理論と歴史(Teoria e storia della storiografia)』(1917年)。「すべての歴史は現代史である。」という言葉で知られる。
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