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ジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico, 1668年6月23日 - 1744年1月23日)は、イタリアの哲学者。
ナポリの貧しい本屋に生まれた。幼少から利発であったらしく貧しいながら初等教育の学校に通わせられている。7歳の時に階段から転落して頭蓋骨を損傷して、陽気であったのが憂鬱で辛辣な人柄に変わってしまったと『自伝』で述べている。学校にもなじめずほとんど自学自習で済まし、哲学・文学・歴史学・法学・自然学などを学ぶ。18歳の時、侯爵ドメニコ・ロッカの子息の家庭教師として雇われ、ナポリよりさらに南方のチレント半島のヴァトッラというところにある侯爵の居城で9年間を過ごす。城中の書庫にある哲学・文学・歴史から法学にかけての古今の書物は、ヴィーコの精神発達をうながした。1695年にナポリに戻り、職探しに奔走の末1699年に王立ナポリ大学の修辞学(雄弁術)教授になった。1724年には法学教授の後任人事に応募するが、失敗している。法学教授と修辞学教授では6倍の俸給の差があったという。1725年に主著『新しい学 Principi di scienza nuova』を出版するが、費用を引き受けてくれるはずだったフィレンツェの枢機卿ロレンツォ・コルシーニ(後の教皇クレメンス12世)が約束を反故にしたせいで、1.25カラットのダイヤの指輪を処分して、原稿の分量も削っての出版であったという。
ヴィーコは「数学的知識以外の知識はあり得ない」というデカルト派の認識論に反対し、学問に必要なのは認識可能なものと不可能なものを区別する原理であると考えた。その原理とは「真理と事実とは置換できる」、つまり、精神がある対象を理解するためには、その対象が人間精神によってすでに作られていなければならない、ということだった。数学は人間の作り出した仮説であり、歴史は人間の「行為事実」が無から作り出すものであるから、両方とも認識可能な事柄である。こうして歴史は、明確な認識を生みうる学問として数学と並ぶ地位を与えられた。
ヴィーコは歴史を研究するときに次のような仮定を設けた。
ヴィーコは次の5つを、歴史家の陥りやすい誤謬の原因としてあげた。
さらに歴史家が利用できるものとして、言語学・神話・伝説・現代の未開人・子どもや農民の作るおとぎ話などをあげた。ヴィーコは文献を過去のものとして葬らず、文献学と哲学を総合し、歴史研究を科学と同じくらい確実性があるものとした。また、芸術を論理に従属させる考え方に反対し、芸術の構想力が論理より優位にあると主張したため、反合理主義の哲学者とも呼ばれる。
当時としては革命的ともいえるヴィーコの歴史哲学は、生前には反響をもたらさなかった。モンテスキューはヴィーコの著作をもっていたが利用した形跡がなく、ヴィーコと似たような思想家であるドイツのハーマンは1777年に『新しい学』を手に入れているが、その当時は国民経済に関心を持っていたので、失望して手放してしまった。ヘルダーは1797年になって初めて『人道に関する手紙』でヴィーコのために一頁を割いている。
ヴィーコの本格的な評価は19世紀に入って、とりわけベネデット・クローチェの研究を待たねばならない。日本人研究者では和辻哲郎が『近代歴史哲学の先駆者』(弘文堂、1950年[1])で紹介している。また、社会学者の清水幾太郎もヴィーコを紹介している。
現在は上村忠男が訳・研究を多数刊行している。
エーリヒ・アウエルバッハは『新しい学』ドイツ語訳を行ない、著書『ミメーシス』でも、ヴィーコを引用しその影響を論じている。エドワード・サイードは、著書『オリエンタリズム』でオリエンタリストの典型として歴史家の誤謬をあげている。日本の知識人のヴィーコ愛読者として、ジャーナリスト・評論家立花隆がいる。 また西部邁も17世紀に於いてのヴィーコの反デカルトへの指摘の事実を取り上げている[2]。
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