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ドイツの経済学者 ウィキペディアから
フリードリッヒ・リスト(Friedrich List, 1789年8月6日 - 1846年11月30日)は、19世紀のドイツの経済学者。ドイツ歴史学派の泰斗。国民的体系(national system)、国民的改革体系(national innovation system)の諸理論を発展させた。欧州統合の理論的先駆者であり、その思想は欧州経済共同体の礎となった。
歴史学派 | |
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生誕 |
1789年8月6日 神聖ローマ帝国 ヴュルテンベルク公国ロイトリンゲン |
死没 |
1846年11月30日(57歳没) オーストリア帝国 クーフシュタイン |
国籍 | ヴュルテンベルク王国 |
研究分野 | 経済学 |
影響を 受けた人物 |
アレクサンダー・ハミルトン ダニエル・レイモンド |
影響を 与えた人物 | アーサー・グリフィス、エリック・レイナート、ハジュン・チャン、中野剛志 |
実績 |
ナショナルイノベーションシステム 歴史学派の創始 |
ヴュルテンベルクの帝国直属都市ロイトリンゲンの革なめし匠の子として生まれた。14歳の時にラテン語学校を中位の成績で卒業するが、父の職業には適さなかったために、1806年にはブラウボイレンの市役所事務室に書記として勤め、ウルム、シェルクリンゲン、1813年にはテュービンゲンの県庁へ転任した。テュービンゲン大学の講義に出席し、独学を始める。1816年シュトゥットガルトへ移住して、自由主義的な大臣ヴァンゲンハイムに認められ、1817年にはテュービンゲン大学に新しく設立された財政学科「国家政策」の教授に任命された。1819年からドイツ商工業同盟を創立、活動を指導し、そのため1820年5月21日に官職を罷免されている。この年にウィーンを訪問し、かねてからヴュルテンベルク憲法闘争でのリストの活躍に目をつけていたメッテルニヒによる生涯にわたる迫害を引き起こし、翌年にかけて領邦議会にも進出している。現国家制度反対の煽動、政府への侮辱の罪という宣告を受けて亡命し、アルザス・バーデン・スイス・ロンドン・パリと放浪し、1824年に帰郷しホーエンアスペルクに投獄される。翌1825年にアメリカ移住を条件として放免され、以前から同道を勧められていたフランスの名士ラファイエットの忠告にしたがって渡米、6月10日にニューヨークに到着する。
国賓としてアメリカ各地を旅行していたラファイエットと3ヶ月行動をともにし、アメリカ一流の政治家に紹介された。ペンシルベニア州のハリスバーグに農場を手に入れて農業経営のかたわら、主にアメリカの制度・実業・経済事情に研究に従事した。農業には失敗したのでレディングで《Readinger Adler》というドイツ語新聞の編集を引き受け、年俸700フランで政治記事を書く。工業と農業の対立が先鋭にあらわれ、運輸機関が国民生活を急激に変えつつあったアメリカでの経験が後の著作に生かされている。鉱山事業に成功し、故国での名誉ある地位を望んだリストは、1832年夏にアメリカ領事として帰国した。
1833年までロッテック=ヴェルッカーの『国家学辞典』の編集に協力、ライプツィヒ=ドレスデン鉄道の敷設に貢献し、ドイツ鉄道網の完成を奨励した。諸雑誌の創刊、関税同盟の設立、記者としての活動で多忙を極めながら、政治的圧迫と中傷とアメリカでの事業の崩壊に苦しみ、1837年にはパリに旅行する。そこで「保護関税より自由貿易への推移のもっとも合理的な方法について」というパリ学士院の懸賞問題に刺激され、リストの主著『政治経済学の国民的体系Das nationale System der politischen Oekonomie』が書かれ、帰国後の1841年に完成されている。同年、ライン新聞の編集長のポストを提示されるも療養を理由に断る(カール・マルクスが就くことになる)[1]。1844年にハンガリーを訪問し、1846年にロンドンで議会を傍聴している。オーストリアのクフシュタインでピストル自殺を遂げた。
中野剛志はフリードリッヒ・リストは『政治経済学の国民的体系』の中で「ネイション」(国民)と「ステイト」(政府)の概念を明確に区別しているとしている。リストの経済学は重商主義と混同され、重商主義と経済ナショナリズムは同一視されるが全く異なるものであるとし、その主眼は利益でも効用でもなく、国民が共有する「文化」であり、物質的要素と文化的要素は相互に関連し、ともに発展できると考えたことであるとしている[2]。
としている[3]。
中野は自由貿易も得意な分野に特化し輸出で稼ぐということになると、他人の市場を奪い取るなどの経済的な利益だけを考えているため、ほとんど重商主義に近くなるとしている。このような重商主義のロジックとリストの経済ナショナリズムが決定的に違うのは、富を取りに行くとか、富を交換するといった論点ではなく、富を自分で作り出すにはどうしたらいいかという、生産の創造性について語った点であるとしている。デイビット・リカードをはじめとする標準的な自由貿易の理論は、モノを交換すると効率が良くなるとか、消費者の効用が上がると言っているだけであり、そのモノ自体をどうやって人間が作っていくか、どういう条件があれば生産ができるかという議論が全くなされていないとしている[4]。
経済学者の野口旭は「『幼稚産業保護』論を唱えたフリードリッヒ・リストの貿易思想は、その後の発展途上国の貿易政策に大きな影響を与えた」と指摘している[5]。
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