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ポーランドの都市 ウィキペディアから
トチェフ(ポーランド語: Tczew [tt͡ʂɛf] ( 音声ファイル)、ドイツ語: 、カシューブ語: Dërszewò)は、ポーランド北部のヴィスワ川沿いにある町。ドイツ名ディルシャウ。人口5万9111人(2021年12月)。プロイセン東部鉄道時代にさかのぼる操車場を備えた、鉄道のターミナルである。魅力的な旧市街と、第二次世界大戦で被害を受けたヴィスワ川に架かる橋で知られる。
トチェフ | |||
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ヴィスワ河岸から見た旧市街 | |||
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北緯54度5分30秒 東経18度46分39秒 | |||
国 | ポーランド | ||
県 | ポモージェ県 | ||
郡 | トチェフ郡 | ||
基礎自治体 | トチェフ(都市型自治体) | ||
建設 | 12世紀 | ||
町制施行 | 1260年 | ||
政府 | |||
• 町長 | ミロスワフ・ポブウォツキ | ||
面積 | |||
• 合計 | 22.26 km2 | ||
標高 | 25 m | ||
人口 (2021年) | |||
• 合計 | 59,111人 | ||
• 密度 | 2,700人/km2 | ||
等時帯 | UTC+1 (中央ヨーロッパ時間) | ||
• 夏時間 | UTC+2 (中央ヨーロッパ夏時間) | ||
郵便番号 |
83-110 | ||
市外局番 | +48 58 | ||
ナンバープレート | GTC | ||
ウェブサイト | www.tczew.pl |
1999年から、ポモージェ県トチェフ郡の中心地になっている。1975年から1998年までグダニスク県に所属していた。
トチェフ(織物の町の意[1])は、ポメラニア公グジミスワフが聖ヨハネ騎士団に所領を下賜した1198年の文書にトルショフ (Trsow) として記されている[要出典]。1200年ごろ、ポメラニア公サンボル1世はこの地に要塞を築いた[1]。いくつかの記録に散見されるデルシェヴォ (Derszewo) という表記は、封建地主のデルスワフの名に由来する。トルショフとデルシェヴォが同じ村を指しているのか、それとも別々に存在したのかは判然としない。ヴィスワ川の水運の掌握を磐石にするため、ポメラニア公サンボル2世は居城をルビシェヴォ・トチェフスキエからこの地に移した[要出典]。1252年までに、村はトチェフやディルシャウとして知られるようになった。1260年に町となりリューベック権を得たが[要出典]、1309年のソルディン条約でチュートン騎士団のハインリッヒ・フォン・プレツケの所領となった。町は1364年から1384年に再建されて、ヴィンリッヒ・フォン・クニプローデの代にクルム権を取得した。1434年にはフス派によって焼き討ちされた。1466年に第二次トルンの和約が締結されると、チュートン騎士団から新しく建てられた王領プロイセンに移管された。
宗教改革で、町民のほとんどはルーテル派に改宗した。1626年にこの町を占領したスウェーデンのグスタフ2世アドルフは、ヴィスワ川に浮き橋を架け、町の南はずれで野営した[1]。いったん復興したが、今度はスウェーデン・ポーランド戦争で被害を受けた。1657年9月2日に郊外で発生した戦いで、ポーランド軍はヴァルデック=ヴィルドゥンゲン伯ヨシアス2世麾下のブランデンブルク-スウェーデン連合軍に大敗を喫した[1]。
1772年の第一次ポーランド分割で、この地方はポーランド・リトアニア共和国からプロイセン王国に併合された。ディルシャウは、新設された西プロイセン州に編入された。ナポレオン戦争さなかの1807年に、ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ将軍によって一時的に解放されたが、1815年に再びプロイセン領となった。1871年にドイツ帝国が成立した。
ベルリンとケーニヒスベルクを結ぶプロイセン東部鉄道が開通した19世紀、町は急速に発展した。ディルシャウ郊外のヴィスワ川に架かる橋が、発展に重要な役割を果たした。
プロイセンとドイツの統治下で、ポーランド人マイノリティはドイツ化強制政策に苦しめられた。例えば、ポーランド人学校は否定され、子どもたちにドイツ語を教えることを拒むと、ドイツ人役人のハインリッヒ・メッテンマイヤーは、赴任したドイツ人教師はポーランド人の子どもとその親から最大級の軽蔑をもって迎えられていると書き記した[2]。
第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約ではポーランド回廊の一部となり、ポーランド第二共和国に組み入れられた。1920年1月30日、ポーランドのヨーゼフ・ハラー将軍の軍隊が町に到着した。町にはポーランドにおけるドイツ人マイノリティの文化活動の中心地として、ドイツ語学校や劇場が設立された[要出典]。ポーランド国会の議員にもドイツ人マイノリティが選出されていた。
戦間期には、トチェフは海事学校で知られた。この学校はのちにグディニアへ移った。
市のウェブサイトによると、トチェフは橋が爆破されるのを未然に防ぐため、1939年9月1日の午前4時34分にドイツ軍がポーランドの工兵基地を襲撃した、第二次世界大戦開戦の地である(ヴェステルプラッテで砲撃がはじまったのが午前4時45分)。1939年から1945年まで、ディルシャウは第三帝国のダンツィヒ=西プロイセン帝国大管区ダンツィヒ県の支配下にあって、グダニスク・ポモージェ地方の諸都市で最も大きな被害が出た。生産施設は事実上ひとつも残っていなかった。人口は1.8 - 2万人にまで急減した。戦後まもなく、赤軍が進駐してきた。ポーランド人民共和国の一部となり、町名は再びトチェフに戻された。町民は復旧・復興に努力を傾注した。現在は電気工業や機械工業の企業が数社ある。
年 | 人口 |
---|---|
1772 | 1,442 |
1782 | 1,587 |
1831 | 2,310 |
1875 | 9,713 |
1880 | 10,939 |
1890 | 11,897 |
1900 | 12, 808 |
1905 | 14,164 |
1921 | 16,250 |
1943 | 25,869 |
1960 | 33,700 |
1970 | 41,100 |
1980 | 53,600 |
1990 | 59,500 |
2000 | 61,200 |
2009 | 60,279 |
2021 | 59,111 |
トチェフの紋章には、1260年に町としての権利を与えたサンボル2世公をたたえて赤いグリフィンがあしらわれている。
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