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ディノ・デ・ラウレンティス(Dino De Laurentiis, 1919年8月8日 - 2010年11月11日[1])は、イタリア出身の映画プロデューサー。ディーノ・デ・ラウレンティスの表記もある。本名はアゴスティーノ・デ・ラウレンティス(Agostino De Laurentiis)。
ディノ・デ・ラウレンティス Dino De Laurentiis | |||||||||||||
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本名 | Agostino De Laurentiis | ||||||||||||
生年月日 | 1919年8月8日 | ||||||||||||
没年月日 | 2010年11月11日(91歳没) | ||||||||||||
出生地 | イタリア王国 トッレ・アンヌンツィアータ | ||||||||||||
死没地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス | ||||||||||||
国籍 | イタリア | ||||||||||||
配偶者 |
シルヴァーナ・マンガーノ(1949年 - 1988年) マーサ・シューマッカー(1990年 - 2010年) | ||||||||||||
著名な家族 |
ルイジ・デ・ラウレンティス(弟) ヴェロニカ・デ・ラウレンティス(娘) ラファエラ・デ・ラウレンティス(娘) アウレリオ・デ・ラウレンティス(甥) ジャーダ・デ・ラウレンティス(孫) | ||||||||||||
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ローマで映画製作を学んだが、第二次世界大戦勃発により中断。1940年の『L'ultimo Combattimento』より150本以上の映画のプロデュースを手掛けている。インディペンデントのプロデューサーとしてはカルロ・ポンティとともに業界最高峰の人物で、生きる神話の一人とも呼ばれた。
1957年、『道』でアカデミー外国語映画賞(第29回)を受賞[2]。
1962年(昭和37年)3月に来日している。
2001年、第73回アカデミー賞でアービング・G・タルバーグ賞を受賞[3]。
1949年にイタリアの女優シルヴァーナ・マンガーノと結婚。4人の子供をもうける(次女は映画プロデューサーのラファエラ・デ・ラウレンティス)が、1989年に死別。最後の妻は映画プロデューサーで40歳近く年下のマーサ・シューマッカーで、2人の子供がいる。
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