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ティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌス(ラテン語: Titus Veturius Geminus Cicurinus、生没年不詳)は紀元前5世紀のローマの政治家で、紀元前462年の執政官(コンスル)である。紀元前451年には十人委員会の一人であったと思われる[1]。
パトリキ(貴族)であるウェトゥリウス氏族のキクリヌス家の生まれである。父は紀元前494年の執政官を務めた、同名のティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌス[2]。一族には、紀元前499年の執政官ガイウス(もしくはプブリウス)・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌスがいる。
紀元前462年、ゲミヌスは同僚であるルキウス・ルクレティウス・トリキピティヌスと共に執政官に就任した。前年にはローマに疫病が流行し、執政官プブリウス・セルウィリウス・プリスクスとルキウス・アエブティウス・ヘルウァ、アウグル(鳥占官)のティトゥス・ウェルギニウス・トリコストゥス・ルティルスとマニウス・ウェレリウス・ウォルスス・マクシムス、最高神祇官のセルウィウス・スルピキウス・カメリヌス・コルヌトゥスが犠牲になったが、そこからようやく回復したところだった[1]。執政官任期中に、新たな選挙制度に対する提案が出された。これはプブリウス・ウァレリウス・プブリコラがインテルレクス(執政官不在の場合等におかれる5日間の最高権力職)のときであった[3]。
ローマが疫病で疲弊しているのを見たアエクイ族とウォルスキ族は、この機会を利用してローマおよびその同盟国であるヘルニキの領土を攻撃した。ゲミヌスはウォルスキを容易に撃退した。他方、ルキウス・ルクレティウスは、略奪品を持って撤退中の敵軍に大勝利し、ローマ領土から略奪された品物の大部分を取り戻した[4]。この勝利のため、ルキウス・ルクレティウスは凱旋式を、ゲミヌスは小凱旋式を実施した[5][6][7]
両執政官がアエクイとウォルスキに対する作戦のためにローマを留守にしているときに、護民官ガイウス・テレンティリウス・ハルサ(en)が、執政官の権限を制限する特別法案を提出した[8][3]。執政官不在中のプラエフェクトゥス・ウルビ(首都長官)であるクィントゥス・ファビウス・ウブラヌスがこの法案に激烈な反論を加え、執政官が帰還するまで投票を延期すべしとし、実質的には他の護民官たちによって取り下げられた[9]。この法案はローマ社会に混乱を招き、パトリキとプレブスの対立が顕著となった挙句、キンキナトゥスの息子が追放されるなど紆余曲折を経て、紀元前451年/450年にローマ初の成文法である十二表法として実現する。
紀元前451年、おそらく彼はローマ最初の十人委員会の一員に選ばれた。十人委員会は、ローマ最初の成文法である十二表法(初年度はそのうちの十の法)を制定し、定説によれば、1年間穏やかにローマを統治した[10][11][12]。しかし、古代の記録では名前の不一致が見られるために、実際に委員であったかは不明である。カピトリヌスのファスティ(執政官の名前が記録された石版)とシケリアのディオドロスはプラエノーメン(個人名、ファーストネーム)を「スプリウス」としているが、リウィウスは「ルキウス」、ハリカルナッソスのディオニュシオスは「ティトゥス」としている。十人委員のほとんどは執政官経験者であるため、これに合致するのはティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌスと ガイウス・ウェトゥリウス・キクリヌス(紀元前455年の執政官)のみである[13]。
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