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北アイルランドの町 ウィキペディアから
オマー(英: Omagh、英語発音: [ˈəʊmə][3]ないし[ˈəʊmɑː])は、イギリスの北アイルランド、ファーマナ・アンド・オマーの中心都市。ドランラフ川とカモウェン川がストラール川となる合流点に位置する。2001年の人口は1万9910人で、県内で最も多い。オマー郡議会と西部教育・図書館委員会の本部が置かれている。
オマーはアイルランド・ゲール語で「前人未到の平原」を意味するアン・オーマイ (an Ómaigh) [4]を英語風にしたものである。792年ごろフランシスコ会が修道院を建て、1610年に町となった。1641年の反乱ではティロン県東部からの難民をかくまった。ボイン川の戦いが起きた1689年にはジェームズ2世がロンドンデリーへの道中に立ち寄ったため、ウィリアム3世の勢力から焼き討ちを受けた。
1768年にダンガノンに代わり、ティロン県の県都となった。1852年にデリー、1853年にエニスキレン、1861年にベルファストとの間に鉄道が開通。1881年には兵営が築かれ、1899年になるとティロン県立病院が開業した。同院ではいま、医療サービスを維持するためのキャンペーンが行われている。1957年にグレート・ノーザン鉄道委員会がオマー=エニスキレン線を[5]、1965年にはアルスター交通協会がポータダウン=オマー=デリー線を廃止した[6]ため、オマーを通る鉄道はなくなった。町内のセント・ルシア兵営も2007年8月1日をもって閉鎖された。
当地を訪ねたことのある人物にはエリザベス2世、チャールズ3世、ビル・クリントン(米大統領)とその妻ヒラリー・クリントン、メアリー・マッカリース(アイルランド大統領)、トニー・ブレア(英首相)などが挙げられる。
1998年8月15日、オマーは国際的にメディアの耳目を集めた。この日、リアルIRAが町内に仕掛けた自動車爆弾が炸裂し、女性と子どもを含む29人が死亡、100人以上がけがをした。
2011年4月にも自動車爆弾テロがあり、ロナン・ケア巡査が殉職した。事件から1ヵ月後に元IRA暫定派のグループが犯行声明を出した[7]。
人口は2001年国勢調査の統計に基づく。
オマーはドランラフ教区のオマー・タウンランド(アイルランド独特の土地区画)に生まれた町である。時とともに、市街は下記のような郊外のタウンランドにも拡大していった。
アイルランドの観測史上最低気温である-19.4℃を記録したことがある[8]。しばしば洪水に悩まされ、わけても1909年、1929年、1954年、1969年、1987年、1999年、最近では2007年6月12日のものは大洪水であった。その結果、ストラール川の堤防建設など、被害を最小限にする対策が講じられてきた。蛇行する川の両岸は開発に不向きなため、緑地帯や遊歩道、公園に整備されている。
北アイルランド統計・調査エージェンシー (NISRA) は、オマーを大規模タウン型入植地に分類している。人口は1万9910人(2001年国勢調査)で、内訳は下記の通り。
郊外のアルスター・アメリカン・フォーク・パークにはトマス・メロンの生家が保存されている。彼は1813年にこのコテージで生まれ、5歳でアメリカのペンシルベニア州に移民するまでを過ごした。トマスの息子が「鉄鋼のカーネギー、銀行のメロン」と言わしめたかのアンドリュー・メロンである。園内は1800年代のアイルランド人(とりわけアルスター)の移民の足跡を展示する野外博物館になっており、復活祭(イースター)、クリスマス、アメリカ独立記念日、ハロウィーンには大規模なイベントが行われる。毎年ブルーグラスの音楽祭も開かれる。2003年度の入場者数は12万7000人を数えた[10]。
市街の北16kmの森のなかにはゴーティン・グレンズ森林公園があり、滝や湖の自然を楽しめる。
中心市街地には2007年、都市再開発事業の一環としてストラール芸術センターがオープンした。ストラール川とハイ街の中間にモダンな市民センターを建てることで、さびれた区域の活性化をはかるよい例である。
子ども向けの公園が20箇所以上あり[11]、ほとんどが緑におおわれている。そのなかで最も大きいのは、市街近郊のグランジ公園である。蛇行するストラール川沿いにも、多数のオープンスペースが整備されている。オマー・レジャー・コンプレックスはグランジ公園近くの大きな市民公園で、11ヘクタールのグラウンドのほか娯楽施設、ボート競技のための池、人工芝の競技場、自転車道などがある。
県の中心部に位置するゆえ、デリーやレターケニーを出し抜き西アルスターの小売の中心地となっている。2000年からの4年間で8000万ポンド以上の資本が投資され、6万960平方メートルの土地が新たに小売関連の用地となった。主なショッピングセンターにはメイン・ストリート・モール、グレート・ノーザン・ロード・リテール・パーク、セダン通りのショウグラウンズ・リテール・パークが挙げられる。ハイ街にも小売店が連なる。
鉄道は町はおろか、郡内にも通っていない。
1852年9月3日にアイルランド規格の1600mmのロンドンデリー・アンド・エニスキレン鉄道 (L&ER) が開通し[12]、1854年にエニスキレンまで延伸された[13]。1861年にはポータダウン・ダンガノン・アンド・オマー連絡鉄道 (PD&O) がオマーに到達[13]、後にポータダウンとデリーとをむすんだことで「ザ・デリー・ロード」の異名をとった[14]。グレート・ノーザン鉄道 (GNR) は1876年にPD&Oと合併し[15]、1883年にはL&ERと統合した[15]。
1957年、北アイルランド政府はGNRのオマー=エニスキレン線を廃止[5]。残るGNRの路線は翌年にアルスター交通協会に委託され、1963年のいわゆる「ベンソン報告」を受けて「デリー・ロード」も1965年2月15日に廃線となった[12][16][17]。線路跡には後に道路が敷かれた。
オマーにはすべてのレベルで幅広い分野の教育機関がある。ホスピタル街のカンプシー・ハウスには西部教育・図書館委員会の本部が置かれている。
町内のマーケット街にQ101.2 FM Westという局があり、BBCラジオ・アルスターもオマーにスタジオを構えている。
2008年12月には4週間にわたって、コミュニティラジオ局の「ストラールFM」が試験放送を行った。番組の司会者や歴史家、サウス・ウェスト・カレッジの学生らが共同でプロデュースし、地元の耳より情報と音楽を組み合わせた番組を放送した。このプロジェクトは2009年度ソニー・ラジオ・アカデミー賞のコミュニティラジオ部門で銅賞を受賞した。
スポーツではゲーリック・ゲームズ、わけてもゲーリックフットボールの人気が高い[要出典]。町内にはヒーリー・パークを本拠地とするオマー・セント・エンダズと、クラナボーガンを本拠地とするドランラフ・サーズフィールズの2つのクラブがある。
ヒーリー・パークはゴーティン街にあるゲーリック体育協会 (GAA) の拠点スタジアム。収容人員は2万5000人ほどで[18][19]、照明灯を有する競技場としてはアルスター初である。ティロン県シニア・フットボール選手権大会の後半戦や県内のホームゲーム、それに他県のクラブ同士で中立的な競技場を要するゲームに使われる[20]。
2005年にオマー・タウンFCが消滅してから、サッカークラブは一つもない。
主に地元住民から成る、アマチュアチームのオマー・アカデミカルズがある。
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