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日本神話や記紀に登場する島 ウィキペディアから
オノゴロ島、又はオノコロ島とは、日本神話や記紀に登場する島。特にイザナギノミコト・イザナミノミコトによる国生み神話で知られ、神々がつくり出した最初の島となっている[1]。『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま、初字は「磤」と表記する。
オノゴロ島は、自凝島とも表記され、「自(おの)ずから凝り固まってできた島」の意味である[1]。
他方、記紀以外の古文献にはオノコロを「島」の意味としない記述がある。例として「胞衣の囲みは オノコロの 玉子とならば」、また、「ちなみの赤は オノコロの 胞衣の形は 河車 臍の緒となる」などがある[2]。
神話内容のうち、オノゴロ島が登場する箇所を記述
イザナギノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が、国生みの際に、「天浮橋(あまのうきはし:天と地を結ぶ宙へ浮く橋。神はこの橋を渡って地へ降りるとされる[3]。)」に立ち、天の沼矛(ぬぼこ)をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった[4]。これがオノゴロ島である[4]。
オノゴロ島に降りた2神は「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿(やひろどの:広大な殿舎)」を見立て、[5]イザナギノミコトは左回りにイザナミノミコトは右回りに天の御柱を巡り、出会った所で相手の魅力を褒めあい、この島で成婚する[6]。
黒日売(くろひめ)が吉備の国へ帰郷した際に、大雀命(仁徳天皇)は後追い吉備の国へ行幸するが、道中詠った歌にはオノゴロ島が登場する。
「押してるや」は難波の枕詞。「我がくにみれば」は、歌を詠んだ仁徳天皇が現在地辺りから眺めると、という意味であり、国見を行ったと解釈されている[8]。国見とは国の地勢や景色、人々の生活状態などを、地位の高い人物が望み見ることを言う[9]。
オノゴロ島は、神話の架空の島とする説と実在するという説とがある。
伝承が残る地域は近畿地方が中心で、平安前期の古代諸氏族の系譜書である『新撰姓氏録』では、オノゴロ島は沖ノ島など友ヶ島の島々と一説がある[10]。
同じく平安前期に書かれた『新撰亀相記』と鎌倉後期成立の『釈日本紀』では、オノゴロ島の説明に沼島を当てており、近世以降のほとんどはこの沼島説が定説となっていた[10]。明治時代に発行した地名事典である『大日本地名辞書』でも、「オノゴロ島を沼島と為すは至当の説なるべし」と、沼島説を有力に見なしている[11]。
江戸中期の国学者、本居宣長は『古事記伝』により、オノゴロ島は淡路島北端にある絵島と見立てており、絵島説は大神貫道の『磤馭盧嶋日記』でも記載がある[10]。オノゴロ島の候補地は様々な見解があるものの、淡路島周辺の小島であっただろうと考えられている[10]。
また、前述の仁徳天皇が詠んだ『古事記 下巻』の歌を参考にすれば、アハ島(阿波志摩)を淡島明神(和歌山市加太の淡嶋神社)として沼島をオノゴロ島とすれば淡路島から一望できる。またアハ島(阿波志摩)は四国の阿波方面を指すという見方もあるが徳島と浪速を一望できる場所はない。[8][11]、アハ島についても諸説存在する。
オノゴロ島を博多湾に浮かぶ能古島(ノコノ島)とする意見もある、能古島に敬称の御を付けて御能古島(オノコノ島)、古代「の」は「ろ」であったのでオノコロ島となり、オノコロ島がオノゴロ島であるとする。
筑波山
江戸時代の国学の一説
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