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イドリブの戦いでは、シリア内戦下のシリア・アラブ共和国イドリブ県イドリブにおける、複数の戦闘について記述する。
イドリブはイドリブ県の県庁所在地。シリア北東部のアレッポ-ラタキア間にある肥沃な盆地に位置する。農業は綿花・穀物・オリーブ・イチジク・ブドウ・トマト・ゴマ・アーモンド、工業は紡績・オリーブ油製造などが盛ん[1]。
アラブの春がシリアに波及した2011年以降、イドリブ県は「アラブの春」は反アサド色が強い地域となる[2]。そのため、政府軍と反体制派の間で戦闘が繰り返された。
2015年3月に反体制派のファトフ軍がイドリブを占領して以降、イドリブは反体制派の戦闘員や民間人らの避難先となっている。シリア内戦が始まってからの6年弱でイドリブに流入した国内避難民は70万人に上るとする推計もある[3]。
2012年、大統領バッシャール・アル=アサド率いる政府軍と反体制派の自由シリア軍の間で、攻防戦が行われた。
同年3月までにイドリブは反体制派の中心地として機能していた。しかし、シリア政府軍は4日の間猛攻撃を加え、反体制派を駆逐した[4]。
2012年7月、反体制派の自由シリア軍は、アサド政権に対する総攻撃作戦「ダマスカスの火山とシリアの地震」を開始した。イドリブでも政府軍に対する攻撃が行われた[5]。しかし、寄せ集めの自由シリア軍は、メンバーの士気・規律が低下し、2012年夏過ぎには人心の離反を招いた。その結果勢いが弱まり、イスラム過激派に反体制の主導権を奪われてしまう[6]
2015年3月、政府軍と反体制派組織の合同作戦司令室ファトフ軍の間でイドリブを巡り戦闘が行われた。この頃、同市には住民やシリア政府の支配を離れたイドリブ郊外からの避難民数十万人が3年にわたって身を寄せていた。ファトフ軍はこれまでの反体制派以上に高度に組織化され、また重武装化していた。ファトフ軍は政府軍による空爆を食らいながらも、約2000人の戦闘員が40輌におよぶ兵員輸送車に乗って四方から攻撃を加え、政府軍拠点を制圧したうえで市内に進入するなど、系統立った戦闘を展開した。なお、戦闘開始前からイドリブの行政機構はジスル・シュグールに移されており、このことがイドリブ陥落を早めたとする見方もある[7]。
2015年3月24日、シリア政府が統治するイドリブ攻略のために、アル=ヌスラ戦線・シャーム自由人イスラム運動など、イドリブ県で活動する複数の反体制武装勢力による合同作戦司令室「ファトフ軍」が結成された[8]。これをきっかけにシリア政府軍とファトフ軍の間でイドリブの支配権をめぐり戦闘が行われる。
『ハヤート』紙(2015年3月30日付)によると、イドリブ攻略に参加したファトフ軍戦闘員の内訳は以下の通り[9]
これに対して、イドリブ市の防衛にあたっていたシリア軍は次のとおり[9]
3月25日、戦闘が行われファトフ軍による自爆テロが行われ、検問所が襲撃された。この時点で既にイドリブ県の大半は反体制派が支配しており、政府の支配下にあるのはイドリブ市、アリーハー、ジスル・シュグール、アブー・ズフール航空基地など6つの基地を残すのみとなっていた[10]。一方でファトフ軍の中核を担うと思われていたヌスラ戦線は独自行動をとっていることが明らかとなった[11]。26日、イドリブ周辺でファトフ軍が次々と施設を占領していった。これに対して政府軍は空爆で応戦すると同時に新たな検問所・哨所などを設置して反撃を試みた[12]。
27日、イドリブ県知事のハイルッディーン・サイイドが軍服姿で政府軍部隊を視察した。ファトフ軍は攻勢を強め、イドリブ一帯の軍検問所20カ所を制圧し、市内に侵入した。そして中心部の中央郵便局、市東部のミフラーブ交差点、国立博物館、農学部、福祉関連ビル、マアッラトミスリーン交差点、シャムラ・ガソリン・スタンド、ハール市場などを制圧した。市北東部ではバーブ・ハワー検問所を制圧し、カファルヤー町、フーア市に至る兵站路を遮断、政府軍の進行を阻止するための防御を固めた[13]。
28日、イドリブは陥落し、ファトフ軍の手に落ちた。ジハード主義者に占領された県庁所在地としては、ラッカに次いで2つ目だった。ファトフ軍は市民から歓迎されたと主張した。また、イドリブ中央刑務所にはファトフ軍兵士たちが進入し、シリア政府によって処刑された囚人たちの遺体とする写真を公表した。バッシャール・アル=アサドの写真は破られ、前大統領ハーフィズ・アル=アサドの像は破壊された[7]。
この時点でシリア政府の支配下にとどまっているのは、行政機構を移したジスル・シュグールの他、アリーハー、アブー・ズフール航空基地、マストゥーマ村の「野営キャンプ」、アレッポ県方面の「煉瓦工場」などわずかな町と施設に限られた[7]。しかし、これらの拠点も反体制派の攻勢に晒された[14]。
戦闘では、双方合わせて170人の兵士、戦闘員が死亡した。支配者の交代に伴い、イドリブから大量の避難民が市外に流出した。一方でそれまでトルコやイドリブ県各地に避難していた元住民がイドリブへ帰還した[15]。
イドリブ陥落に衝撃を受けたアサド政権では内部対立が生じたとされる。また各地で反体制派の勢いが強まり、4月の南部戦線によるダルアー県での攻勢、5月のファトフ軍によるジスル・シュグール占領、ISILによるパルミラ占領などが行われた[16]。
イドリブ成立後、ファトフ軍の本部はイドリブに置かれた。しかし、ロシアの参戦によって、激しい空爆に晒されることとなった。そこで、ロシアとトルコの仲介でアサド政権とファトフ軍の間で交渉が行われ、2016年12月には一時停戦が実現する。しかし、この停戦ではシリア征服戦線(旧ヌスラ戦線)が対象外となっていた。そこでシリア征服戦線は停戦に応じたシャーム自由人イスラム運動を中心とするファトフ軍主流派を批判し、2017年1月にはファトフ軍非主流派組織が合流してタハリール・アル=シャーム(HTS)が結成された。ファトフ軍とシリア解放機構はイドリブ県各地で戦闘を繰り広げた[19] 。
2017年7月、HTSとシャーム自由人イスラム運動の間でイドリブの支配を巡り戦闘が行われた。その結果、シャーム自由人イスラム運動は撤退し、イドリブはHTSが掌握した[20] 。
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