アフガニスタン紛争(アフガニスタンふんそう、ロシア語: Афганская война、パシュトー語: د افغانستان جگړه)とは、冷戦時代の1978年に成立したアフガニスタン民主共和国(アフガニスタン)と同国と軍事同盟を締結して介入・侵攻したソビエト連邦(ソ連)と、それらの政府の政策に反対して総決起したムジャーヒディーンと呼ばれるイスラム聖戦士の間で勃発した戦争である。また、冷戦中という特性上ソ連と対立するアメリカ合衆国(アメリカ)やイギリス等の西側諸国やパキスタン、サウジアラビア、イラン等のイスラム世界の国々、エジプト等の親米アラブ諸国、更には当時思想面でソ連と対立していた中華人民共和国(中国)などの一部の東側諸国もムジャーヒディーンや反ソの毛沢東主義勢力を支援し、武器などを送る軍事援助やスパイを送っての政治援助などを行った事でも知られる。結果的にはムジャーヒディーン側の勝利に終わり、ソ連軍は撤退。同国の後ろ盾を失ったアフガニスタンも政権崩壊に追い込まれ、ムジャーヒディーンによる臨時政府が創られた。
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概要 アフガニスタン紛争, 交戦勢力 ...
アフガニスタン紛争 |
左上から時計回りにソ連軍の狙撃兵、ソ連軍の装甲車部隊、作戦中のムジャーヒディーン、ムジャーヒディーンとアメリカの首脳会談。 |
戦争:アフガニスタン紛争/冷戦[1] |
年月日:1978年4月 - 1992年4月[1] |
場所:アフガニスタン[1] |
結果:ムジャーヒディーン側の勝利。ソ連軍は撤退し、アフガニスタンの政権は崩壊[1]。 |
交戦勢力 |
ソビエト連邦 アフガニスタン民主共和国 支援国 ブルガリア人民共和国 キューバ共和国 チェコスロバキア社会主義共和国 東ドイツ ハンガリー人民共和国 ポーランド人民共和国 ベトナム社会主義共和国 アンゴラ人民共和国 インド |
ムジャーヒディーン ヒズベ・イスラミ・ヘクマティアル派 ジャマーアテ・イスラーミー ヘズブ・エ・イスラミ・ハーリス アフガニスタン・イスラム戦線 ハッカーニ・ネットワーク サズマン・イ・ナスル ヒズボラ・アフガニスタン マクタブ・アル=ヒダマト ヘズブ・エ・イスラミ・ハーリス イッテハド・エ・イスラミ アフガニスタン解放機構(ALO) アフガニスタン人民解放機構(SAMA) アフガニスタン・ムジャーヒディーン自由戦線(AMFF) 支援国 アメリカ合衆国 イギリス サウジアラビア パキスタン イラン エジプト 中華人民共和国 |
指導者・指揮官 |
レオニード・ブレジネフ ユーリ・アンドロポフ コンスタンティン・チェルネンコ ミハイル・ゴルバチョフ ドミトリー・ウスチノフ アンドレイ・グロムイコ セルゲイ・ソコロフ ドミトリー・ヤゾフ ヴァレンティン・ヴァレンニコフ(英語版) イーゴリ・ロジオノフ ボリス・グロモフ ユーリー・ドロズドフ ヌール・ムハンマド・タラキー ハフィーズッラー・アミーン バブラク・カールマル ハジ・モハンマド・チャムカニ ラシッド・ドスタム アブドゥル・カディル モハマッド・アスラム・ワタンジャル ムハンマド・ナジーブッラー シャフナワーズ・タナイ |
ブルハーヌッディーン・ラッバーニー アフマド・シャー・マスード ムラー・ナキーブ(英語版) イスマーイール・ハーン グルブッディーン・ヘクマティヤール ファザル・ハック・ムジャーヒド(英語版) アブドゥッラー・アッザーム ワエル・ハムザ・ジュライダン(英語版) ウサーマ・ビン・ラーディン アイマン・ザワーヒリー ムハンマド・ユーヌス・ハーリス ジャラールッディーン・ハッカーニ(英語版) ムハンマド・オマル アブドル・ハク ハジ・アブドゥル・カディール アブドゥル・ラスル・サイヤフ ムハンマド・ナビー・ムハンマディ(英語版) シブガトゥッラー・ムジャッディディー サイード・アフマド・ギラニ アブドゥッラヒム・ワルダク アブドゥルアリー・マザーリー ムハンマド・ジア=ウル=ハク ジミー・カーター ロナルド・レーガン |
戦力 |
1988年当時 ソ連軍100,300人 アフガニスタン軍40,000人 同国秘密警察20,000人 同国民兵100,000人[2] |
1988年当時 国内ムジャーヒディーン130,000人 国外予備勢力110,000人[2] |
損害 |
15,000人以上戦死[3] |
2,000,000人以上戦死 難民6,000,000人以上[4] |
- 冷戦
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しかし、当時のソ連軍はアフガニスタンの「点と線」しか支配する事が出来ず、同国のほとんどをムジャーヒディーンが支配していた事から当時の同国の実質的な指導勢力は共産主義政府ではなくムジャーヒディーンではないかとする説もあり、だとすればこれはソ連が同盟国アフガニスタンに介入したのではなく、共産主義国家化させようとしたソ連とイスラム国家化しようとしたアフガニスタンの戦争であるとする説にも結び付く事になる。
日本のマスメディアでは、ソ連軍の侵攻以降の局面は「アフガニスタン侵攻」(アフガニスタンしんこう)などと呼ばれる事も多い。「ソ連・アフガン戦争」(ソれん・アフガンせんそう)と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内での戦闘は、1979年の出兵から1989年の完全撤収まで約10年に及んだ。
長期化した戦争で、ソ連側は1万4000人以上が戦死、アフガン側はその数倍の戦死者を出す結果となり、「ソ連のベトナム戦争」と言われた[5][6]。とは言っても、かつてアメリカ軍と戦ったベトナム民主共和国(北ベトナム)や南ベトナム解放民族戦線が統一された指揮系統を持っていたのに対し、アフガニスタンのムジャーヒディーンはあくまで部族や派閥の集まりであり、統一された指揮系統は持っていなかったなどの違いはある。[要出典]