コンゴ動乱
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コンゴ動乱(コンゴどうらん、フランス語: Crise congolaise、1960年 - 1965年)は、1960年6月30日にベルギー領コンゴがコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル、現在のコンゴ民主共和国)として独立した直後に勃発した反乱から始まる混乱である。
コンゴ動乱 | |||||||
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冷戦中 | |||||||
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1960–63年: コンゴ共和国 後援: 国際連合 ソビエト連邦 |
1960–63年: カタンガ国 南カサイ国 後援: ベルギー | ||||||
1963–65年: コンゴ民主共和国 後援: アメリカ合衆国 ベルギー |
1963–65年: シンバ反乱軍 後援: ソビエト連邦 中華人民共和国 キューバ | ||||||
指揮官 | |||||||
ジョゼフ・カサブブ ジョゼフ・カサブブ ジョゼフ・モブツ モイーズ・チョンベ |
モイーズ・チョンベ ピエール・ムレレ クリストフ・グベニエ |
1960年7月11日に、旧宗主国のベルギーから支援されたモイーズ・チョンベは、この混乱の拡大に乗じて南部カタンガ州がカタンガ国として分離独立することを宣言したため、混乱を収拾するためにアメリカ合衆国とソビエト連邦の一致[1]で国際連合安全保障理事会決議143が採択されてコンゴ国連軍が投入された。しかし、国際連合がカタンガへの介入に消極的であったことから、初代首相パトリス・ルムンバは支援を求めてソ連に急速に接近し、これがアメリカ寄りの初代大統領ジョゼフ・カサブブとの対立を生んだ。
他方、ジョゼフ=デジレ・モブツは、1960年9月14日に、政治状況の打開を口実として無血クーデターを起こし、ルムンバは自宅軟禁下に置かれた。モブツによって、カタンガのチョンベの元に送り込まれたルムンバは、1961年1月17日に処刑された。また、1961年9月18日には、カタンガ側との仲介を試みた国連事務総長ダグ・ハマーショルドが、飛行機墜落事故で死亡するという悲劇も発生した。
ハマーショルド死後の国連は新しく選ばれた事務総長ウ・タントの下、カタンガに積極的に介入する方針に転換し、米ソ双方の支持を取り付けた(国際連合安全保障理事会決議169)。1963年1月21日に、コンゴ国連軍がチョンベ派の最後の拠点を制圧したことで、カタンガの分離活動は沈静化に向かった。次いで毛沢東主義に感化されて左傾化した旧ルムンバ派の一部が、シンバの反乱(英語版)を引き起こして、1964年7月末からコンゴ中部及び東部で急速に勢力を拡大したが、スタンリーヴィルに監禁された人質を救出する目的で、1964年11月24日からアメリカとベルギーが合同で展開したドラゴン・ルージュ作戦によって、シンバの反乱軍勢力は大打撃を受け、その直後に崩壊した。
その後は、カサブブと、亡命先から帰国して暫定首相に就任したチョンベとの間で新たな政治的対立が生まれたが、1965年11月25日に、モブツが政治状況の打開を口実として二度目の無血クーデターを起こして権力を掌握し、独立以来続いていた混乱は事実上終結した。このコンゴ動乱は、冷戦を主導したアメリカとソ連による代理戦争でもあり、動乱の期間中に、約10万人が殺害されたと見られている[2]。